幸福度調査

 幸福度というものがあると仮定して、ある行動を取ると幸福度は上がり、ある行動を取ると幸福度が下がる、ということが実際にある気がしたので、もやもや考えていた。自分の幸福度調査をする必要がある。
 温泉は幸福度が上がる。ストレス値も下がってよい。しかし混んでいる温泉は逆に幸福度が下がる。ストレス値も上がる。なので温泉は空いている時間に、空いている場所へ行く必要がある。もっとも幸福度が高かった温泉は伊香保の山奥の街灯すらもほとんどない道をひたすら進んだところにある秘湯っぽい温泉で、山猿が遊びに来そうな湯である。温泉に行く際は、そういうところを選ぶようにする必要がある。
 ゲームは幸福度が上がる。ストレス値はそれほど下がらない。ゲームはやりすぎると幸福度が下がる。大体一日に5時間×7日を超えた辺りから幸福度は下がり始める。現実を生きていないような感覚に陥るわけである。現実を生きているし楽しいのだけれど、実感としてそうなる。もっともよいゲームのやり方は休日に12時間連続でプレイし、3日ほどでとりあえずシナリオを全クリする感じのやり方である。その際、お菓子・ジュースを大量に用意し、朝となく夜となく連続してプレイすると効果が高い。体は間違いなく全身疲労困憊に陥り、ある種の機能不全がやってくることは間違いないけれど、ゲームはとにかく没頭することが重要である。ゲームは現実を忘れるくらいのめり込む必要がある。そして前述の通り、現実を忘れるくらいのめり込むと現実を生きていない感覚がやがてやってくることは注意が必要である。
 本屋に行くことは幸福度がわずかに上がる。ストレス値はそれなりに下がる。本屋をぶらぶらしているだけで幸福な気持ちになるけれど、ここで本を買ってしまうと幸福度が下がることがある。ストレス値も上がることがある。これは積読書が堆積していることが原因であり、本を買うことと本屋を訪れることは分けて考える必要がある。本屋に行くことと本を読むこともまた別の発想が必要である。
 映画館は幸福度が上がる。しかし迷惑な客がいるとストレス値が上がる。これは温泉と同様である。美術館・水族館もやはり同じジャンルに分けられる。
 喫茶店は幸福度は上がらないことが多い。ストレス値は上がりやすい傾向にある。このジャンルでいうとファミレスは店によっては幸福度が上がることの方が多い。もっとも幸福度が上がるのは人のいないステーキ屋さんである。あるいはしゃぶしゃぶもよい。
 ギャンブルはおおむね幸福度が上がらないことの方が多い。勝つと一時的に幸福度が上がるが、負けると下がり幅がかなり大きい。
 ライブはあまり幸福度が上がらない。ストレスはそれほどないことが多い。ライブは見ている最中が一番退屈であり、ライブに行く前が一番楽しい。
 落語は基本的に幸福度が上がる。ストレスはあまり下がらない。ストレスが下がりにくい、というのがポイントであるように思う。
 散歩は逆に幸福度は上がりにくい。しかしストレス値はうっすらと下がる傾向にあるようだ。
 Vtuberの動画は幸福度もストレス値もほとんど変化がない。むしろわずかに幸福度は下がり、ストレスもにわかに上がるような気さえする。どういうわけか、Vtuberはギャンブルと同じような感覚がある。今日はものすごく久しぶりにパチンコをやろうかなと思って近所のパチンコ屋に入ってエウレカの台を打ってみた。そしてすごく久しぶりに「めちゃくちゃ退屈だな!」と再認識した。パチンコというのはやったことがある人はみんな知っていることだと思うけれどめちゃくちゃ退屈である。ボーナスに入ったら楽しいけれど、通常の画面でただ球をぴゅんぴゅん飛ばしてリールがくるくる回っている時のまったく一ミリも面白くない苦痛の感じ、無になって何も考えずにぼうっと画面を見続けているあの感じ、Vtuberはあの虚無に似ている。ここで重要なのは、「パチンコの無が必要な時もある」ということなのだ。通常画面の異様なほどの退屈さ、ただ画面を見つめ続けるだけの虚無感、脳死感こそがパチンコの本質的な快楽なのではないか? これは村上春樹が“ぼくは無を得るために走っている”みたいなことを言ったあの感じにとてもよく似ている。パチンコは当たった時のばきばき画面が光って耳をつんざく爆音が鳴る場面ばかり目立つけれど、大半の時間は虚無であることを忘れてはならない。何も考えずに画面が動いたりぴかぴかしたりするのをただ眺めているだけ、という無の時間をえるためにパチンコをするならそれはそれでいいように思う。
 ぼくは今日は2000円だけやって帰ろうと思い、パチンコの幸福に対するコスパを調査した。ぼくはギャンブルがしたいわけではないので1円パチンコ(普通のパチンコは1玉4円)をやった。1パチは大体1000円で15分くらいしか続かない。2000円目に突入したら急にエウレカレントンがキスをして、その二人がハートマークで囲まれて画面がびかびかしてびるるる!びるるる!と異様な音が鳴り響き、画面の上からニルバーシュの役物がリフをしている格好で降りてきたのであまりの面白さに吹き出しそうになった。こういう荒唐無稽なわけのわからない演出はパチンコがもっとも得意としているところだ。一番面白かったのはチャンスゾーンみたいなところで、金文字で「交響詩篇」という文字がたくさん浮遊し始める演出で、わけがわからな過ぎて笑ってしまった。「交響詩篇」がうじゃうじゃ出てくるってなに? 交響詩篇はただのタイトルの一部でありシナリオにはあまり絡んでこないキーワードだと思うんだけれど、たぶん演出を考える人のネタがなくなってしまったんだろう。発想が異次元すぎてとてもよい。ということで2000円目は44分続いた。そして3000円とビール2本になって戻ってきた。この場合はとてもコスパが良い。お金が増えて面白くてビールも貰ったからいい事ばかりだ。でも忘れてはいけないのは、負けた時にとても嫌な気分になるということだ。2000円くらいなら負けても別に痛くはないけれど、ぼくは5000円くらい負けると「もう二度とやりたくない!」という気持ちにすらなる。
 という風に、お金に対する自分の幸福度というものを考えてみるのはなかなか面白いし有益だなとちょっと思った。同じギャンブルでも競艇はもっとお金がかからないし、もっとのんびりできて、むしろのんびり読書をしながらレースの時だけちょっと船を見て「ふーん」と思ってまた読書をするくらいが一番楽しい。競艇場のひなびた昭和風のレストランでカレーを食べたりするのも乙である。
 読書はアウトドアでする方が幸福度が高い。図書館、電車の中、旅館、あるいは歩行者天国、デパートの屋上などで読書をするのは気持ちがよいものだ。
 釣りは釣れても釣れなくても幸福度はやや上がる。ストレスはかなり下がるようだ。
 スケボーは人のいない広い場所でやるととても幸福度は高い。しかしストレスはそれほど下がらない。
 お酒は飲み過ぎなければ幸福度はそれなりに上がるけれど、大抵飲み終わったあとに急落する。
 文章を書くことは幸福度は上がらない。ストレスはやや上がる。それでもこうして書いているのは、幸福にもストレスにも関係なくぼくが書くことが好きだからだ。
 という風に雑多にまとめてみたけれど、幸福度とストレスは分けて考えるべきだったかもしれない。
 現時点のぼくは、どうしたらストレスが下がるか、あらためてモニタする必要があるようだ。

ライブ

 ライブに行きませんか?
 と、Aさんに誘われた。
 どういうバンドが出るのか調べてみる。ライブハウスの質素なサイト。
 その日の出演は知らないバンドが二つと、ぼくが20年前にファンになってからずっと影響を受け続けているバンドだった。いつかきっと死ぬまでにライブに行こうと思っていたバンド。
 えっ? Aさんにこのバンドが好きって言ったっけ?
 言ってないと思う。Aさんが好きにならなそうだし、そんなに有名なバンドでもないからなんか変なマウントみたいに思われても嫌だし、だから言ったことはないと思う。でも、ならなぜここにそのバンドの名前があるのか。おかしい……何かがおかしい……狂っている。奇跡というか、奇跡じゃないか。
 ぼくは「行くことにしました」とだけ返信をした。
 20年溜め込んできた気持ちは、20年の歳月によってもっと複雑な愛に変化している。
 それはまるで家族に対する愛である。自己に深く根ざしているから切り離して考えることさえ難しいというような。
 当日、無事にライブハウスに着いた。ガラガラだった。閑散としている。ドリンクチケットでジントニックを頼んで、会場が暗くなってステージに最初のバンドが現れ空間の広い音楽を演奏をした。
 そのあとにぼくの好きなバンドが出た。
 20年好きだったバンドだから、ぼくはその時「化石を見ているような気持ち」になった。
 うれしかったし、好きだったし、かっこよかったし、迫力もあったし、動いていたし、バンドの人達も生きていたし、ぼくもずっと生きていたし、だから、でも、しかし、ぼくは全く感動しなかった。
 15年前にこのライブを見ていたら、涙のひとつでもこぼしたのかもしれない。
 でも、このバンドの音楽は、もう感動がたどり着かないくらいぼくの一部になっていた。
 自分の手を見て感動する人間なんていない。このバンドはもうぼくの心の基礎を担ってしまっている。
 そのことを悲しいともうれしいとも思わない。
 自分の手を見て悲しいともうれしいとも思わないように。
 ぼくはにこにこしながらステージの上のバンドマンを眺め、爆音で耳を痛め、そして20年前のぼくが泣いてうらやましがるようなことを、ほとんど何も感じずに終えた。

人の業

 めちゃくちゃ忙しい1日だったので残業をして、その後、同僚と焼肉を食べビールを飲み、帰宅時に駅に着いた途端、先輩から電話が来て少し笑い話をして、到着した電車にぎりぎり乗り、乗った電車が運転を見合わせており、駅のホームに放り出され、混迷を極める雑踏の只中でこれを書いている。一体、今日という一日にいくつのイベントを放り込めば神の気が済むというのか。あまりにも凝縮し過ぎていて、もうなんの余裕もない。ひとことで言えば、うんざりである。うんざりであるが、ポジティブに言えば充実している。神は乗り越えられる試練しか与えないという。それならば、神はバランス感覚マジで無い。

 先輩が電話で言っていた。俺の部署は月の労働時間300時間だよ。一般的な月労働時間は160時間だと言われているから、過労死ライン軽く超えていますね、はははとぼくは大笑いをした。そして涙をふいた。神はバランス感覚マジで無い。先輩だって懸命に生きているのだ。感情を失いながら、激甚なる疲労を抱えながら、健康を著しく損ないながら、人生をぎりぎりまで切り売りして、妻子のために粉骨砕身、我が身を投げうって働いているのだ。すさまじいではないか、社会人というものは。神はこう言った。「人はおのれの仕事に出て行き、夕暮れまでその働きにつきます。」と。深夜まで働きます。とは言わなかったではないか。これは、人の業です。戦争はずっと前からはじまっていた。誰も気づかなかっただけ。

 一日に、たったひとつ、何か楽しみがあればいい。たったひとつ、好きなことができていればいい。もう、そう思う他ないではないか。職業奴隷として訓練された人間として、その価値を教育されてきた人の業として、そのシステムに生かされてきた子供として、ただひとくちの水のために生きる他ないではないか。30分のゲームのために、8時間の労働と3時間の通勤を重ねて。

 人は他者に影響を与えることができない。人はこの世界に何も残すことができない。人は滅ぶものしか生み出すことができない。おお、神! 神はとっくに死んでいる。誰も気づかなかっただけ。だから人が生み出した脆弱な喜びをぼくは信じよう。それしかないではないか。

 今日は、いい音楽をひとつ聴きました。頂き物の紅茶を飲みました。人の命が軽い以上、命を救われました、という言葉も、もっと気軽に用いられるべきなのかもしれません。

 

 

 

 

 

萌えた

 カモミールが萌えた。
 ひょろひょろで髪の毛みたいに細い茎、双葉もミニチュアサイズ。見るからにかよわい。
 けれど、なんとまあかわいいことでしょう。
 もしかしたら、種のまま死んでしまうこともあるんじゃないかと思っていたから、命が動き出すという、ただそれだけのことで感動している。
 萌える、という言葉が草木の発生を意味していることと、スラングとして心のときめきを意味していること、そのふたつは別々ではなく根本が同じだということに気がついた。
 芽生えるという現象は、ときめきだ。
 また最近では、笑うことを「草を生やす」と言うこともあるけれど、そう考えると日本人のネットスラングは自然に根ざした言葉が多いようであり、現象と情緒が結びついているところが愉快である。
 どんどん草が生えればいい。
 水をかけてあげよう。
 
 会社の同僚と「アニメの世界に入れるとしたら、入りますか?」という話をした。
 同僚は入りたくないと言う。
 アニメの世界に行ってもどうせ飽きてしまうだろう、と悲観的で面白かった。
「無条件でぼくのこと好きになってくれる女の子がいる世界とかでも、気持ち悪いじゃないすか」とクールである。そういう感性もあるかあと思った。
 ぼくはアニメの世界に入ってみたいと思う。
 というよりも、どちらかというとゲームの世界に行ってみたい。
 ぼくはずっと昔から「モンスターを倒して生活したい」という夢があるので、町の周りをうろうろしてモンスターを倒してゴールドを集めて生活したいと思っている。
 そこには何の感情もなく、事務的に、義務的に、ただ同じことを延々と繰り返すばかりの穏やかな生活がある。
 ああでもそれ、現実と一緒か。
 どの世界でもぼくはぼくなんだろう。

概念の悪夢

 “仕事で失敗をしたような気がする”という悪夢を見た。
 めちゃくちゃ悪夢で不安で不快だったんだけれど、ぼくは生まれてはじめてこのタイプの悪夢を見た。
 ポイントは「仕事で失敗をした悪夢」ではなく、「仕事で失敗をしたような気がする悪夢」だというところで、これは人間の弱い心を的確にえぐってくる。
 夢の中で自分は仕事で失敗をしたのかどうかが確かめられない状況にあって、作業を思い出して「失敗したような気がするなあ、怒られるかなあ」と延々と苦しんでいる。失敗をしたかどうかが確定しないので、永遠の苦しみが生まれる。
 この悪夢は途中から明晰夢になって、「これは夢だ」と気づくんだけれど、とんでもない強制力によって自分は失敗したかどうかが気になって仕方ない、という気持ちにさせられるというすごい仕様だった。理性とか思考とか論理とか関係なく、強引に気持ちを不安・不快に引きずり込む概念の悪夢は目覚めてからちょっと笑ってしまった。
 
 それにしても、ちょっとメンタルがくたびれているなあと思う。
 金縛りに続いて長く苦しむタイプの悪夢を見始めたらそろそろまずい気がする。
 18時に仕事が終わって、一服して、渋谷でご飯を食べて、帰宅して風呂に入ったらもう寝る時間になっていて、急いでこの文章を書いている。
 余裕がないなあと思う。
 ストレスを解消する余裕もないし、疲れを癒す余裕もない。
 よく社会人って生きているなあと思う。

まばらに

読書

 自宅でこれを書いている。今日はいつにも増してまとまりのない文章になるかもしれない気配を感じており、というのも今しがた『目を合わせるということ』モモコグミカンパニー著を読み終えたからで、このエッセイがなんか良くて、思ったより心が振れていた。アイドルグループBiSHの初期からのメンバーのモモコグミカンパニーさんの一番最初のエッセイで、ぼくはBiSHのことをほとんど何も知らず、特に興味があったわけでもなく、「そういえば紅白でものすごく特徴的な歌声の人がいたのはBiSHだったなあ」くらいの知識量で、なぜ読み始めたのかというと表紙をすしおさんが描いているからで、その表紙をTwitterで見かけた時から買おうと決めていた。興味も知識もないけど、でもたぶん面白い本だと思った。そういうことにかけては、ぼくの勘はよく働く。
『目を合わせるということ』は面白かった。モモコグミカンパニーさんの客観性が特に良かった。ほとんど味のつけない素材を丸ごとぶん投げてくるような文体が良かった。話を盛ったり、表現を凝らしたりすることがない、ただ思った事をメモって出しただけみたいな、というか実際そうなんだろうけれど、その感じが帯にあるように『等身大』とか、『ありのまま』というグループ全体のある種のコンセプトと上手く嚙み合っている。それから、ぼくは単純にシンプルな文体が好きだから気に入ったのだというところもあるんだけれど、でもよく考えてみると、何を書こうと思ったのか、という素材の選択というのか、記憶の切り取り方というのか、そういう基本的な根本的な根源的な部分は書くことにおいての個性の、基本的な根本的な根源的な部分なのだから、それが気に入ったのならそれはやっぱり文章の基本的な根本的な根源的な部分を気に入ったということなのであり、ぼくの好み以上の、何か万人に訴えかけるところがあるのかもしれないな、とも思った。いやわからないな、万人に訴えかけない文章なんてあるんだろうか。取説の中にだって詩はあるんだろう。“強く握ると潰れます”とか、そういう文章は涙が出てくる。
 この本にはキラキラした部分がほとんどなく、不安や悔しさやよりどころのない気持ちや存在の不安定さみたいなものが全体の80%を占めており、普通の大学生がどのようにしてアイドルになったかが描かれており、アイドルになった大学生がどのようにアイドルを認識しているのかが描かれていて、章タイトルの『踊ってみた、少しも楽しくなかった』が表しているように、とても正直な文章が書かれており、こういうパンクの部分もやっぱり好きだった。ブコウスキーの『死をポケットに入れて』みたいじゃん? 取り繕ったり飾りつけたりすればたしかに美しい文章ができるのかもしれないけれど、それは届きにくいのかもしれないな、と思ったりもした。仕事の道具をラッピングする必要はない。
 
夜の露天風呂
 
 時計は21時を指していた。町は静かに佇んでいた。
 近所に温泉がある。夜には一度も訪れたことがない。だから行ってみようと思った。
 夜の露天風呂に行こう。
 家を出ると、もう夏ではない空気だ。
 オレンジ色の街灯の下に人影はない。国道にテールランプが連なっているばかりで、無機質が広がっている。
 横断歩道を渡り、セブンを左に曲がって、スーパーマーケットの前の広い歩道を進む。高層マンションに見下ろされている。あの複眼のような窓のひとつひとつに命がぎちぎち詰まっている。
 温泉の看板をくぐり、影の多い廊下をゆくと入口が見えてくる。
 下駄箱に100円入れてサンダルをしまう。はだしがひんやりつめたかった。ぼくの後ろにぴったりついてきた男性が乱暴に下駄箱のふたを閉める。かすかにお線香のにおいがした。
 天井が高いロビーには、数台のソファーが置かれていて、透き通った肌の数人が虚空をみつめて無言だった。受付はアクリル板で仕切られていて、無数の指紋が幕のようになっている。ひびわれた指が入場券を受け取って、代わりに鍵を寄越した。甲高い笑い声が風呂場の方から聞こえてきた。鳥の声のようでもあった。あるいは湯沸し器が軋んだのかもしれなかった。
「男」と書いてある紺色の暖簾をくぐり、脱衣所に入ると全裸の男がいる。
 あらためて全裸の男の実存に思いを馳せる。人間を感じる時、そこには必ず情けなさや惨めさがあるように思う。というよりも、その対極が人間離れしすぎたイメージを担い過ぎた。人間を愛するということは、情けなさや惨めさや、愚鈍さや想像力の欠如や、残忍さや不完全さを愛することだ。それをみつめるということだ。裸ん坊の学生の集団が子猿のように群れてサウナに入って行った。
 露天風呂にはダークブラウンの影がなみなみと満ちている。夜があふれている。月は見えない。透き通って固くなった空気が澄んだレンズになってオレンジ色の照明で照らされた濡れた岩をくっきりと映していた。
 鈴虫の声がしていた。
 
会合

 会合は急遽、延期になった。ぼくは安心した。それからぼくは不安になった。そしてぼくは開き直った。
 何が起きるかなんて、いくら考えてもわからない。
 なるようになるし、なるようにしかならない。
 ぼくのことを考えてくれていない、ということに純粋な喜びを感じる。
 
電話

 就寝予定時刻の1時間前に先輩から電話があり、ぼくは露骨に不機嫌な声を出してしまった。
 先輩は人が寝る時刻に電話をかけてきて、それで何の用かというと、ただ単純に大きいテレビを買ったという自慢をしてきたのだった。
 なんといえばいいのだろう。なんといえばいいだろうか。もちろんぼくは正しいリアクションを取った。でもその正しさで先輩が傷つかないか心配でさえあった。
 たぶん、先輩は、こういう電話のことを「コミュニケーション」だと思っている。
 40を超えて多数の責任を負うようになっても、こうなのだ。
 そこにぼくの価値観と大きな齟齬がある。
 これは誰のどんな会話にも当てはまる齟齬だ。ぼくは人間が悲しくなって泣きそうになる。
 この人たちは死ぬまでこうなのだ。
 話を聞くことができる人間はとても少ない。
 何を話すかが知性で、何を話さないかが品性だ、という言葉をTwitterで見かけた。
 
食事

 姉と姉の友人とショッピングモールに行った。
 そこでぼくは姉に秋物の服を買ってもらった。ぼくは例によって悲しくなった。
 すこし悲しみが強い時期に入ってきたように思う。ぼくは服なんて全然ほしくない。
 服を買う金くらい持っているし、姉に服を買ってもらいたくなんかない。
 ぼくが服を買ってもらったのは、服を買い与えたいという欲求を敏感に察知したからで、そういう性質に名前がついていたように思うけれどなんだったか。
 悪い方の共依存にも似たモデルじゃないだろうか。
 ぼくはただ単純に面白い話をしてちょっと笑っていられればそれでいいのだけれど、ある種の人間はどうしてもぼくに何かを買い与えようとする。
 スチームアイロンやゲーム機や服や酒や食べ物などを与えようとする。
「いやいらねえよ」とぼくは言わない。ぼくはただしいリアクションをする。もはや正しさの定義の問題であるようなきすらしてきたけれど、ぼくは貰い物で今日も生かされていますありがとうございます。
 なんだろうな、ぼくに物を与えようとした人間について振り返ってみると、やっぱり依存傾向が強い人達な気がしてきたな。
 あとはコントロール下におきたい、という欲求なのだろうなあ。
 姉と姉の友人とショッピングモールのハワイアンダイナーで、エッグベネディクトを食べた。
 生まれてはじめて食べたエッグベネディクトは、マックみたいな味がした。
 
警察
 家の裏に警官が数人立っている。
 消防車と救急車が警告灯を回転させている。パトカーも数台止まっている。
 完全な沈黙の中、真っ赤な光だけが騒がしい。
 
金縛り

 何年かぶりに金縛りに遭った。
 体がものすごく重く、動かないけれど意識ははっきりとした状態。
 昔はしょっちゅう金縛りに遭っていたのでもう慣れているけれど、ぼくの金縛りは悪夢的感覚を伴う金縛りなので、金縛りに遭うと無条件で恐い。
 恐い、という感覚と金縛りがセットになっている。悪夢のモチーフが、覚めてから笑っちゃうようなものだとしても、悪夢中には恐怖がついてくるのと同じように、悪夢がすなわち恐怖と直結しているので回避不能だった。
 この金縛りと頭内爆発音症候群的症状がセットになっていることもある。
 ぼくの場合は女性の甲高い叫び声が聞こえることが多かった。母の叫び声であることも割とあった。
 金縛りにもっとも効果があるのはお笑い番組をつけて寝ることで、これをやると金縛りに遭って体が動かなくてもあまり恐くない。
 ギャグの世界では悪夢もあまり機能しない。
 幽霊は性的な話を嫌がる、という説と同じようなシステムなんだろうなあと思っている。
 

 小さな鉢にハーブの種をまいた。
 ものすごく小さな種だ。厚さは1ミリくらいで、長さは5ミリくらい。
 芽は出るだろうか。
 それとも枯れてしまうだろうか。