何かが飛んできて驚いた。
顔を上げると桜の花弁だった。
うつむいて歩いていたので気がつかなかったけれど、強い風に乗って町に桜吹雪。
すげえなあと思った。
大通りを行き交う自動車の列にも、駅からの道を黙々と歩いてくる会社員の列にも、同じように花が降っている。
桜の木を探して周りを見渡した。しかしどこにも見当たらなかった。
ただ桜吹雪だけが忽然と現れ、実体を伴わない現象が移動を続けている。
春の幽霊は南に向かって風に吹かれて、どうなるのだろう。
最後の花びらが一枚、南の島の少年の、麦わら帽子に着地して、そこから夏がはじまる。
弱い長雨が降り続いていた。
灰色の空の下に、灰色の水たまりが出来た。
そこに灰色の鳩がやってきて、羽を膨らませて水浴びをしていた。
目を細めて、いかにも気分が良さそうだ。
そばを歩いても、鳩はなんにも気にしていなかった。
ワイルドに生きているということは、気にしないことなのかもしれない。
電車に乗って渋谷で降りて、駅横の狭い立ち食い蕎麦屋で、かつ丼セットを注文する朝10時。
なんでも出来る気がした。
時間の流れがこれほどまでに早いとは。
去年オープンした床屋がもう潰れてしまった。
看板は取り外され、ガラスドアは割れてガムテープが貼られている。店内には濃い影が集まってぬめぬめしていた。
2回訪れたことがある。一度目は若い男性が切ってくれて、二度目はおばさんが切ってくれた。
店内は鏡と椅子とドライヤーしかないシンプルなレイアウトで、高校の模擬店みたいな、不思議な不安感のある場所だった。
一番印象に残っているのは、髪を切り終わったあと、ナプキンで顔を拭くように言われたことで、食事の時に使うあのビニール袋に包まれたナプキンを渡されて、鏡を見ながら自分の顔をごしごし拭いたことだ。散髪の後処理が雑だったのか、顔には無数の髪の毛がついており不気味だった。
他のお客もみんな鏡に向かってナプキンで顔を拭いて帰るのだろうか。考えてみるとおかしかった。
無くなっても困る床屋ではない。
でもそうだな、そこにあった暇な時間とか、手持ち無沙汰な空白とかが失われていくことが、すこしさびしい。