うつくしい駄文

 春で夜勤明けで雨で、だからしとしとと音がしている、路上を走り抜ける子供たちの足音と車のスプラッシュが響き渡る。うつくしい駄文を読んだ。読んだことのない見紛うかたなき完璧な駄文は、積み重ねていく描写のすべてを間違え、名詞を損ね、登場人物は瞬間移動を繰り返し、意味不明な言動の繰り返し、接続詞は爆発を繰り返し、日本語を破壊し尽くす様はうつくしかった。ああ世界にはこんな文章を書ける人がいるのだと、ちょっとした感動さえ感じるものであった。まったく意味不明な文章というものは例えば「たうぇj田尾江htのあ」であって、これならだれでもあっというまに一万字だって書ける。しかし駄文でありながら、読ませる駄文、うつくしく紡がれる駄文というものには明らかな才能が必要で、それを持っている人間は本当にとても少ない。面白くない駄文、つまらない駄文なら誰だって書ける。今、ここに記されている、そして僕が記している、そしてあなたが読んでいるこの文章だって名文でも秀文でも佳文でもなさそうだから、あるいは凡文、人によっては駄文と思われるであろうことは想像に難くないにせよ、この凡文はやはり凡文の域を出ない、その辺に落ちている石っころみたいなものであると思う。しかしうつくしい駄文は石っころの中の石っころ、ダイヤの原石ではなく、瓦礫の王。そんな風格があった。パンがこーはーと呼吸をした。僕は驚いて食パンの袋を見た。食パンは微動だにせずパンらしくじっとしていた。たまには駄文もいいものだ。それがうつくしい駄文ならなおさらである。