バーチャルに向かって走る/ザ・シンプソンズ

 仕事中にぼうっとしていると、先輩がモニタを指さした。
 なんだろうと覗き込むとスシローとあくたんのコラボ広告だった。僕はふふふと笑った。コラボするのはずっと前から知っていた。それはつまり喜びの共有であった。面白いことがあるよ。ほう、面白いですね。というわけだ。僕は特にあくあクルーというわけではないのだが、先輩はえぺの影響でクルーになりかけていた。僕はうなずいた。外黒さん、行きますか。ええ、やりましょう先輩。先輩はスシローの店舗を検索し、各店舗の開店時間、コラボセットの在庫数の予想などを始めた。これは仕事よりも大事なことです。と先輩は言った。大事なオペレーションの前には入念が準備に必要になります。僕はうなずいた。まったく同意見だった。僕たちは働くために生きているわけではないし、大事なオペレーションのためには時間も手間も惜しまない。先輩は自分の近所のマップを表示し、最寄りのスシローに赤丸を付けプリントアウトした。それから同じ動作を僕の分もやってくれた。僕は最初に10:30開店の、住宅街にある店舗に向かう。そこでコラボセットが完売していたら荻窪の駅前の11:00開店の店舗に全力で向かう。住宅街の店舗は歩いて行ける距離にある。といってもおそらく40分はかかる。できれば短縮したい。いろいろ調べた結果、レンタサイクルを使ってみることにした。はじめての試みだった。
 夜勤前はいつも昼過ぎまで眠っているけれど、今日は9時に起きた。良い気分だった。早起きしてVtuberのコラボ商品を買いに行こうとしている自分がおかしかった。そしてそのおかしさは独特の幸福感をもたらした。それは一体どういう種類の幸福だろう。僕はそれがおそらくは冒険に属する幸福だと思った。やすらぎとは正反対に位置している、わくわくベースの幸福。何を得られるかは問題ではなく、その行為にこそ意味が宿っている。すごくほしいわけでもない物のために努力する倒錯したよろこび。
 適当に服を着替えボディバックに財布と鍵を入れて近所の公園に向かう。レンタサイクルの駐輪場は意外なところにある。公園の片隅に、三台だけの小さなレンタサイクル。インストールしておいたアプリで自転車を予約し、ぺいぺいで支払いを行う。自転車の横で予約をしてみたけれどアプリと自転車搭載の小さなコンピュータ間で結構なラグがあり手間取った。自転車の予約が完了するとスマホに暗証番号が送られてくる。その暗証番号をレンタサイクル搭載のミニコンピュータに入力するとスマートロックが開錠されるという仕組みだった。自転車ひとつ借りるのにハイテク過ぎるとは思うものの、便利である。さっそく自転車に乗ってみる。自転車に乗るのは、三年ぶりくらいだ。ハンドルがふらふらした。電動アシストの電源をオンにすると、笑ってしまうくらい低速のトルクが増した。漕ぎ出しが楽というよりも漕ぎ出した瞬間に猛烈な加速が加わって体が後ろに持っていかれる。すぐに慣れたけれど、最初の何分かは初めて原付に乗った人みたいながくがくした運転になって危なかった。
 板橋の田舎を自転車でのんびり走ったことはある。けれど都心近くの大通りを自転車で走るのははじめてだった。楽しかった。電動アシスト自転車は東京の町を移動するのにもっとも適した乗り物かもしれないとすら思った。駐輪場はどこにでもあるし、坂道は余裕だし、ゼロからの加速も早いし、歩道と車道を使い分けることでかなり自由に移動できる。風を切って陽の光を浴びて自動車の列をぐんぐん追い越していく。都会の運転に慣れたお母さん方のチャイルドシート自転車の後ろについて運転を学ぶ。並木道の影が気持ちいい。自転車ってこんなに楽しかっただろうか。石垣島を原付で走り回った夏のことを思い出していた。電動自転車はそれくらい楽しかった。段差を避け、加速し、停止し、目的地に向かって突き進む事。気楽に国道を流れていく。渋滞は関係ない。ガス欠もない。全く疲れない。
 10:15にスシローに着いた。僕の前には既に4人の客が待っていた。しかしながら4人だ。おそらくコラボセットは10数個用意されているはずだから、僕は勝ちを確信した。開店時間までに十数人が並んだ。この方々はみんなクルーなんだろうなあと思うと感慨深かった。それぞれがバーチャルに向かって現実の道を進んできた。コラボセットはすんなり買えた。また風になってさっさと帰宅した。自転車のかごに入れてあった寿司は振動で爆発していた。美味しかった。僕は何をしているんだろうとふと思った。けれどその俯瞰も今は居心地がいい。晴れ、風、加速。そしてバーチャルに向かって走る。
 
   〇

 12時間ほど連続で眠ったあと、久しぶりに気分爽快になる。
 結局のところ気力体力の回復には無限連続睡眠が必要になることがわかってきた。
 眠る前に観ていた『ザ・シンプソンズ』が終わった状態でモニタに表示されている。
ザ・シンプソンズ』はシーズン1をすべて見終えてシーズン2の途中まで見ている。現在みているのは90年代初期の作品だけれど大変面白い。1話完結の短いエピソードの中にユーモアと悲しみとバカらしさと愛らしさと生活と文化とキャラクターと全部が詰まっていて、しかもシナリオが物凄い速度で展開していく。シーズン2は1に比べると社会派の色が濃くなっていくように思われた。おそらく脚本家によって得意な作風があるのだろうなと予測している。一話から順番に脚本担当と題材について調べていきたいと思っている。ザ・シンプソンズで僕が好きなキャラクターは明らかにリサで、彼女はバートの妹で小学二年生なんだけれど天才サックスプレーヤーでガリ勉で憂鬱症で倫理観がしっかりしているけれどバートの悪戯を一緒に笑ったりイッチー&スクラッチ―で馬鹿笑いしていたり柔軟なところもある。悲しいことがあるとサックスでブルースを奏でるところも分かりやすくて面白いし、天才性や正しさゆえに変人扱いされていそうなところもいい。シンプソンズ一家の黒猫の名前がスノーボールなのもいい。ホーマーの何も考えていないところもいいし、マージのでかい愛もいい。バートの尽きない悪戯もいい。シンプソンズの世界の人間の肌が黄色なのは人種の差別をしないためだし、指が四本しかないのはそもそも人間に似て非なるものであるということを表している、ということを聞いたことがあるところも好きだった。1989年に始まった時から、シンプソンズはすごく考えて作られた作品だった。
 会社の後輩が三週間で辞めてしまった。
 人生にはいろいろなことが起こる。