東京の光景

 休暇最終日。よく考えると小学校の夏休みは1カ月もあったのに、僕はなぜ何もしなかったのだろう。後悔ではなく単純な疑問が湧いた。それからすぐに答えは出る。何もしなかったのではなく、何をすればいいのかわからなかったのだし、そもそも覚えていないだけで何かはしていたはずだ。

 姉の家に一泊した。特にすることもなかった。僕も何かすることを求めて姉の家を訪れたわけではない。季節外れのクリスマスプレゼントを渡せればそれでよかったし、退屈なら退屈でよかった。いつでもリゾート気分で生きているところがある。ある一定の年齢に達してから、退屈を退屈と思わなくなった。暇を暇と思わなくなった。それはたしかに成長のひとつだと思う。けれどその成長が自覚されたのと同時に時間の流れがあまりにも加速するという症状も併発した。退屈が消えた代償は体感時間の加速だった。うまくできている。

 姉は寝ていた。姉の友人がキッチンで料理を作っていた。姉の友人に話したいことがなかったので黙っていた。姉の友人も無理に話そうとするタイプの人間ではなかったので、ダイニングキッチンにはそれなりの沈黙が降り立った。ある人間とある人間の間に沈黙があるとき、互いに不快ではない関係を構築するのはまあまあ難しいことだと思うようになった。そこには相性がある。またそれぞれの信念があり、それぞれの恐怖がある。また、気分がある。一度構築した関係だって永遠ではない。常に変化する。時と場で変化するし、あらゆる変数で変化する。だからこそ沈黙を気にしないでいられる関係というのは貴重だった。
「パイナップル食べる? 台湾のパイナップル」と姉の友人は言った。
 僕が返事をする前に、タッパーに入ったパインが目の前に現れる。フォークが既に刺さっていたので、ひとつつまんで食べるととても甘い。
「うまい」と僕は言った。
「そう」と姉の友人は言った。

 しばらくすると姉が起きだしてきた。クリスマスプレゼントを渡すなどした。短く近況を報告するなどした。そのあとで、どうしてそういう話になったのか、「あんたって高校の時、なじめてなくて苦労したよね」と姉は言った。たしかに僕は高校に全くなじんでいなかったし、苦痛で不安で疎外感でストレスだったことを覚えているけれど、でもその印象は姉の口調とは裏腹に、もっと軽いものだった。言われるほど僕は苦痛を感じていただろうか? 自問しなければならないほど高校入学時の印象は薄かった。僕はもっと気楽に生きていたように思っていたけれど、それは後から記憶の改ざんが起きていただけで、勝手に生きやすく肯定して忘れただけで、本当はもっと深刻にダメージを受けていたんだろう、なんだかそんな気がしてくる。しばらくそのことについて考えているうちに、ひとつの結論にたどり着いた。ああ、そうか、僕はどんな場所にもなじんだことなんて一度もない。いつも毎回胃が痛くなるほど苦痛を受けてストレスを感じて不安で心配で、近くの人間が消耗してしまうほど僕は深刻にダメージを受ける。つまり新しい環境への順応が下手だし才能がない。しかし、その苦痛を僕はいつでも必ず忘れてしまう。何しろ苦痛を感じるのは最初の三カ月くらいで、あとはどうでもよくなるからだ。そしてどうでもよくなってからの方が、時間的には長いからだ。長い時間を過ごしていると、これは順応が下手で才能がなくてもいずれなんとなくなじんでしまうものだ。そこまでがセットで、僕はどうにか生き伸びてきたにすぎない。今でも本当に奇跡のようだと思う。なんか平気で生きてること。

 帰宅の途中で本の町・神保町に向かう。三省堂書店神保町本店は近々改装のために閉店するという情報があった。地下鉄を出るといきなり大規模デモ行進にかち会う。警視庁を背中に背負った警官たちが手を広げて車道と歩道をぐるりと囲んでいる。デモ行進者達は横断幕を広げてシュプレヒコールしながら国道を長い列になって進んでくる。東京だなあ。デモ隊が過ぎるまで車も歩行者も進むことができず、ただぼうっと長い列を眺めているほかなかった。にやにやして見ている人、親指を下に向けて意思表示する人、それからカメラを向けて撮影する人、いろんな人がいた。僕はいろんな人を見ている人。昭和の日なんて休日じゃねぇんだ働けバカ! とスピーカーを使っていた女性が虚空にがなる。デモ隊の声が遠くに消えていくと、町は何事もなかったかのように動き出す。三省堂書店では本を二冊買った。神保町の三省堂が好きだ。一時的にとはいえ閉店すると聞いて、そのことを改めて思い知らされた。一階の入り口付近で「作家が選んだ本」のコーナーを催していて興味深かった。また文具コーナーで閉店セールを実施しておりモレスキンが70%オフになるなど破格の値付けで驚かされる。「これ、安すぎる……メルカリで売った方がもうけるんじゃない?」父親が10歳くらいの娘にそんなことを言っていたけれど、娘の方が一切無視していた。なんとなく愉快なきもちになった。