無思考

 あまり考えると書けなくなる文章があって、それは面白い文章について考えていると特にそうだ、村上春樹のような、チャールズ・ブコウスキーのような、太宰治のような、そういうもののような、デニス・レヘインのような、そういう文章について考えていると、やはり彼らが部分的に人間ではないということが思い当たり、それは結局最初から分かってはいることなんだけれど、芸能人が部分的に人間ではないように、フィクション作家だって部分的には人間ではなくて、さらに言うとライン工だって営業職だって部分的には人間ではない、スタバのカウンターにいる人たちも同様に、求められているのは機能だけで、人間の機能・能力だけという場所・時間においては人間の人間性が不必要になるということなんだ。だから人間が人間性を部分的に捨てることはごく自然なことだと思うけれど、人間性を部分的に捨てた人間が実は人間だということを忘れてはいけないように思う。アイドルやドトールのカウンターの人やマンガ作家だって、部分的に人間性を捨ててはいるけれど人間だった。人間だったから人間であるということを忘れたら人間をやっていくのがとても大変になるのは目に見えていた。上島竜兵さんが亡くなった。
 わたしはテレビが好きな子供だった。あるいは映画のビデオを見たりマンガを一日中読んだりゲームをしたり小説を読んだりも少しはした。そしてわたしはテレビがわりと好きだった。テレビ番組の中でもお笑い番組が好きだった。田舎に住んでいたので映らないチャンネルもあったけれど、好きな番組を見て笑いまくっていることが好きだった。そこから学ぶことが好きだった。テレビから学ぶことは非常に多い。マスメディアのマスの部分がテレビ番組制作を支えていて、マスのマスたる姿勢は、使う人が使えば立派な武器にもなる。武器というのは人生を生き延びるための。要するに笑えることは生きることを生きやすくするし、笑えることの発想自体は人生を生き延びやすくする。最初から面白いことをばんばん発想できる人間はテレビなんてみなくてもいいのかもしれないけれど、学ぶ必要がある人間はそれをどこかで学ばなければならなかったし、その笑いの発想自体がコード化していれば共有することも容易であることだった。共有が容易であるということはコミュニケーションがある程度円滑になるということだ。ダチョウ俱楽部がもつ笑いの発想のうつくしいコードはわたしを何度か助けてくれたことがある、と告白せざるをえないだろう。そこには歴然としたルールがある。ルールを知ることで参加が可能となる。上島さんが押すなよ、絶対に押すなよと言うとき、わたしたちは彼を押したくなる。わたしがそのコードを用いて押すなよ、絶対に押すなよという言うとき、わたしは押してほしい。誰かに押して欲しいし、それで笑ってほしい。
 さびしくなった、今日は曇天。