非日記

 日記以外の文章に対する負荷がある。どういう心の動きなのかは不明だけれど、おそらく創作文芸に対するおそれがあって実行が難しい。日記的文章を書き続けているとやがて日記の日記的根幹にかかる要素が自分の中で予測可能な型になっていることに気づき息苦しくなる。穴を掘って穴を埋める。穴を掘って穴を埋める。その連続した繰り返しの作業が、作業自体の負荷とは関係なく重力を増加させる。よい日記を書こうと思えばよい人生を送る他ないのだけれど、常によい人生を送ることは難しい。人生の価値は時と場とホルモンバランスと経験によって変化することは経験済みとはいえ、息をするだけで疲れてしまい、それなら息を止めればいいと気づいてそっと息を止めてみたら酸欠になって人生はより辛いものとなった、その小発見は示唆的でもある。生きている限り疲労はやってくるが、疲労を避け続けるのも苦痛に繋がる。であるからして、わたしが生きなくてもよい文書を書きたいと願った時、可能性として創作文芸は常に念頭にある。人生を生きなくても創作文芸は可能である、という前提自体が魅力的だし救済的だし、東京の夜景の無尽蔵の生きるためのぴかぴかとかを見たら、それは創作文芸的でもあると思うことができてしまう。

 自分を気持ち良くしておくことを気休めといって、気休めほど人間を助けるものもないのではないか、ってストーリーを点滴で静脈に流しながらなんとか生きている。わたしは助けられてきた、ものがたりに。自覚をして、そして自分の創作文芸が誰かを助けるかもしれないというロマンチックな想像をしていると頭の中が鳩でいっぱいになった。ここではないどこか、わたしではない誰かの話をフィクションです、といって提出したい。聖書みたいに教えがなくても、学ぶ意欲のある人はどんなものからでも学ぶし、文字が並んでいればそれで充分なこともある、可燃物放置厳禁。アメリカの文豪は三語で小説を書いた。それが自身の最高傑作だと言ったそうだ。いつかそういうの、書いてみたいなあと思ってしまう。ここではないどこか、わたしではないだれか、日記ではないなにか。