足の皮をナイフで削る

 朝も夜もなく、時間にも気温にも左右されない、そんな生活が出来たらきっと楽で、たのしいだろうなと考えていたことがあって、また、考えることがあって、そして、それを実行することがあって、実行してみると、それは想像通りに楽で、たのしい。朝から朝まで見たい映画などを見ていると、関節が固まり首も凝ってきて、肉体が浮腫み、むやみに腹ばかり減って、死が近づいて愉快だった。この肉体的な変質はなんの状態に似ているだろうか、わたしは想像する。牢屋とか、引きこもりとか、あるいは北欧の山の麓に一人で住んでいるおじいさん、など。深夜に卵を茹で、着の身着のまま部屋を出て、近所の自動販売機でエナドリを買う。夜の空気はビロードのようにぬめぬめしている。東京の星はみえない。チョコレートアイスを食べながら、スターウォーズを見ている。十数年前にも同じようなことをしていたな、と過去が再訪して、わたしの本質に迫っている。好きなんだと思う。そんな自分を内向的だと思う。光の入らない部屋で、光を放つモニターをひとりで眺め続け、ひとりでわらったり、ないたりしていることが。この生活が続くと、肉体よりも精神が大きく変質していくことを、わたしは知っている。一日ずつ積みあがっていく慣性のエネルギーは、人生を変えてしまうくらい強くなっていることがある。いくらでも人生は分岐する。夜の休憩時間、喫煙所は工場の裏の掘っ建て小屋の中で、ろくに照明もない工場の壁際に疲れた男たちがずらりと座り込んでいた。無数のシルエットだけが夜の中に浮かび上がっていた。あれは蒸し暑い夏の愛知の山の中だった。わたしは思考Aが記憶Aや記憶Bと結合する瞬間が好きだ。生きていることと、生きていたことが思考の外でつながっている感じがする。

 足の皮をナイフで削っている。
 左足の親指の爪の横に皮が厚くなっているところがある。皮の部分は皮なので感覚はない。痛くも痒くもなかったのだけれど、ある日突然よわい疼痛がおきて、おそらく皮の層が神経を圧迫しているのだろうと思われたので、削って薄くしている。かつおぶしを削るように、固い皮を少しずつ削っていく。皮の表面を削ると、内部は透明で琥珀のような質感の組織に変わる。この透明な組織の中に凝固した血が混ざっていることもあり興味深い。皮の中に閉じ込められた血液は化石だった。はじめはおそるおそる削っていたけれど、まったく痛くないので今は彫刻を削るようにしてごりごり削っている。人間の体って不思議だなあと思う。肌の表面を一ミリか二ミリ切るだけで痛みを感じるのに、切っても痛くない部分もある。髪の毛や爪や、皮が厚くなっている部分は痛くない。はじめからそういう風に設計されているみたいに感じてしまう。どこからがわたしで、どこからがわたし以外なのだろう。わたしから生えている爪はわたしの一部だけれど、切った爪はもうわたしではないのだろうか?

 二日間、夢現のまま物を食べ、映像作品を見て、誰とも会話せずにベッドの上に転がっていた。これが幸福の一種であることには自覚的だった。洗濯をして風呂に入り、3時間の散歩に出かける。ヨドバシカメラにぶらっと入ってぶらっと出てくる。テレビを買おうかなと考えた。それから今にも朽ち果てそうな昭和のラーメン屋をみつけてしまい、さんざん迷った挙句に入店した。年季の入った油じみた店内は壁中のメニュー、赤い皮のスツール、厨房には調理白衣のおじいちゃんと、見るからに懐かしい。いまどきラーメンが400円というのもすごい。出てきたラーメンはフライ麺に化学調味料のスープに肉の少ないスタミナラーメンで、これもまたなつかしい。これからこういうラーメンはどんどん絶滅していく。二度と食べられない味になっていくだろう。昭和のラーメンは、現代のラーメンと比べるとおいしいとは言えない。でもわたしは好きだ。誰にもおすすめできないけれど、わたしはそういう店が好きだ。子供の頃からラーメンが好きだった。わたしの故郷は醤油ラーメンが有名で、どこの店でもものすごくしょっぱい煮干し醤油味だった。「食べられないくらいしょっぱい食べ物」が何故か一般的で、いとこの家で出された焼き魚(カレイ)がしょっぱすぎてちょっとずつしか食べられなかったことを今も思い出す。それもまた、なつかしい。