向きあうことは難しいし、体力も精神力も時間もお金も必要だから、簡単に言って大変だ。
向きあったからといって報われるわけではないし、向きあったからといって自らが成長するとは限らないのだし、向き合ったからといって必ず自分が得をするわけではない、ということを、向き合う前に知っておいたほうがいいとは思う。
知ったうえで、向きあわざるをえないという状況はあるし、知ったうえで、それでもなお向きあいたい、という決意だってある。そんな(ある種の悲壮な――滑稽ですらある――決意を経て)ようやく向きあう、という行動が実行されるのではないだろうか。
にんげんは失敗から学ぶ生き物で、必要に迫られてようやく学ぶ生き物である、とわたしは思う。血で支払った学びは、単なる知識ではなく、もっとダイナミックに人間を変える。
「話を聞かないと殴られる」という経験をした人間は、好むと好まざるとにかかわらず「話を聞く」ことを学ぶ。そういう状態になって、はじめて学ぶことができる。本を読んだ程度の“知識”では、人間は変わらない。
わたしは今日も殴られていて、ずっとそうしてきたように、何も言わずにがまんしている。
そうして、すきなものに対しても、慣習的にがまんしていることに気がついた。
気がついたので、すきなものとか、やりたいこととかに、もっと向きあえるんじゃないかと思った。
わたしは死ぬし、すきなひとも死ぬし、未来も過去も無いし、でも今はきちんとここにあった。
“今だけ”という言葉は、印象がよくないけれど、よく考えてみると大切な意味を持っている。それは言葉とは裏腹に、永遠性と関係している。
今だけ楽しければいい。
今だけ頑張る。
今だけを味わうことができなければ、きっと未来も味気ない。