べきではない雑記

 ブログを更新しなかった5日間が、ぼくには三カ月にかんじられるほど何かがあったのか、と言われればあったのだけれど、それを書かねばならないというオブセッションがないので、自分の体験に責任も感じてはいないので(生きるために自由なので)、書こう、書きたい、残したい、記したい、刻みたい、忘れたくない、執筆したい、読んでもらいたい、などの感情が一切ない文章が――一般公開している文章は、こんなことを書くべきではないのだけれど、べきではないというだけで書いてもいいんだけれど、生きるために自由なので――できあがる予定で、つまりぼくがそれを求めているからここにそれを書き、記し(……)、公開することにしているのだけれど、じゃあぼくは、これを一般公開することにしたとき、やっぱり逆説的に読まれたいんじゃないかという疑念は常にあり、読まれてもいいとももちろん思っているわけで、思っているからこそ一般公開するわけで、だって絶対に読まれたくないなら紙に書いて金庫にしまっておけばいいわけで(がそりんをかけてもやしたってかまわない)、そうせずに、誰にでも見られる場所に文章をおいておくのは、誰かに見られるかもしれないことが楽しいからじゃないのですか、とぼくはぼくに話しかけて、ぼくはぼくにそうです、とこたえるあそびをもう十何年もやって飽きないの、もしかしたらなにかの病気かもしれないってずっとずっと思ってきて、その答えがまだでないところをみると、おそらく病気ですらないささいな、つまらない、凡百の、語るに値しない、しょうもない、どうでもいい、些末な、ちりあくたのような、どこにでもある、そういう“せいしつ”に過ぎない、そのことが才能の無いぼくには、天才ではなかったぼくにはかなしかったけれど、過去形なので、いまは昔よりかなしくはなく、そう、塩をひとつまみ、くらいのかなしさくらいしかなくなり、それも適応というのか、自分の人生をいきるために、自分の人生に適者生存していく性質ってある。自分の人生に弱肉強食していく自分の性質、を簡単な言葉であらわすことができないのだろうか、しらんのすけども、遺伝によって才能というものははちきりと、それはもうはちきりとめっきりと才能というものはあっけらかんと頭角をあらわすのですが、遺伝とか才能とかなに? っていうひとも、きっとよのなかにおわすと思うのですが、なんというのか、才能ってみにくいあひるの子のことで、あひるかとおもったら、あれ白鳥ですね、ということが才能であり遺伝であって、これは歴然とはちきりとあっけらかんと添菜と盆栽とをわけ隔てる、ということは自然であって、ぼくはみずからがてんさいではないぼんさいだ、ということをもうかなしくおもっていないし、ほこりにもおもっていないし、そのことについてなにもかんがえていないし、いま、なんとなく文章をずでででと打っていたらなんとなくおもいついたので書いているだけで、おもいついていなかったら書いていなかったことなので、とくに決諭みたいなことがなくてもゆるしてください、ぼくをぶたないでください、ときどきすごくよわい悪役のまねとかをしたくなって、そういうきもちを分かってほしい、共感してほしい、わかる、ものすごくなさけない悪役になってこらしめられたい泣いて主人公に命乞いをしたい、という人にであったことがないことが、ぼくにはたったひとつのすくいだったのかもしれないな。そういうお気持ちをわかってもらいたいという御きもちのほうが、文章を読んでほしいというきもちの5兆倍っょぃ。たぶん、そういう感性というのか、慣性というのか惰性というのか生き方というと大げさか、そういう方向性の舵の取り方が、マスにアピールしないことを理解しているからこそ、それを才能などといって、つまりはどりょくをおしんでいるのではないか、ということにつなげて考えることも眠れない夜にはあったんだ。さいのうとどりょくのはなしをしているんだ、いっしょうけんめい。ライオンは生まれただけでめちゃっちゃっょぃ。ちーたーは訓練しなくても100キロで走れる、これは才能だ。カバがどれだけ走る訓練をしてもチーターにはかてない、これはさいのうだ。カバにはカバのカバ生がありチーターってなに? とおもっているかもしれなくて、だからカバに「おまえはもっと速く走れるようにがんばれかば」といっても、それはね。飛べ、かば! でんきしょっくだ! かば! それはね。数学で100点をとれかば! イケメングランプリで優勝しろかば! ふふ、それはさ。それはさ、かばにいうことじゃない。ここでひとつ、だれしもがかんがえなければならないであろう事柄がひとつあってそれはぼくはかばなのか? ということでありあなたはかばなのか? ということなのだ。もしくはかばでもチーN'ターでもライかつオンでもないにんげん、にんげんという大ジャンルにふくまれているありのままのわたしだ、というひともあるかもしれない。ぼくもいちじきはたしかにありのままという言葉に傾倒し、ありのまま……ありのまま……とあるがままの自分でよい、ありのままのあるがままでOKでそれが最善みたいな思考停止っぽい状態になって、なんというのか、でもありのままをしていたらたしかにちょっこし人生のあんべがいい感じになるのだけれど、ありのまま? ありのままってなんだろう、たとえば、ひとをころさないと死ぬ病気のひとがいたとして、そのひとのありのままはゆるされるのだろうか? そのひとがおれのありのままをゆるしてくれ、といってひとをころしまくることはゆるされないとおもうけれどそれはありのまま教の教義に反するのではないか。極論だったな、じゃあもっとみじかなもので、まんびきをずっとしているひとがいて、そのひとはいわゆるクレプトマニアで、でもそれは社会ではゆるされず、ありのままでいることはかなりむずかしいことだけれど、そのひとの性質を社会の多様性が認めたら、自由に窃盗をしてもいいということになるのではないか、そんなことをしたら世界中の田中商店がすくに潰れてしまって涙の雨が降ってしまう、つまりありのままでいいのは、ありのままが社会にとって正に働く場合のみで、公序良俗に反する性質はありのままから仲間外れにされてしまうということなのか? もっと身近にいうと、ジャイアンはゆるされているのか? ジャイアンは、いる。ジャイアンは、ごく自然にのび太をいじめる。なぜならジャイアンだからだ。ジャイアンを認められますか。もしジャイアンのありのままが良くない、矯正の対象だ、ということになるなら、ありのままという言葉はまったく意味を成さないというか、それはありのままということではナイジャン。個性ってなんだろう、悪い個性を、悪い個性のまま持っていてもいいかというと、今の世の中では、普通によくないとされているよな、というのがぼくの観測結果なのだが、どうだろう、だって嫌なせいかくのやつは、だれだってきらいでしょ。そんなきらわれているやつが、ぼくはわたしはおいらはおいどんは、ありのままでいいんだ、とか言っていたら、それは違うんじゃない、ありのままでもべつにいいけど改善したらもっといいんじゃないって普通におもうしそういいたいけれどありのまま教に入信している世の中ではそれが逆に言いづらい、あるいは聞いてもらえない聞いてもらいにくくなるということはある。そもそもいやなせいかくのやつ、しゅういのにんげんにきらわれがちな人間というのはおそらくじぶんの嫌われている点が見えていないか、見えていても直せないかどちらかなんだとおもう、それを、ひとの顔色を窺わないとか、たにんを気にしないとか、そういう言い方をしてごまかしてしまうんだとおもう。そういうひとは結構いる。それも才能なのか? あるいは才能の欠如なのか? そしてそれはぼく自身の人生にも及ぶ考えであり、ぼくはぼくのいやなところを気づけるのか? ぼくはぼくのかいぜんを図っているのか? 答えはノーの空論で、でもそれを考えずにはいられない。苦しんでいれば病気だけれど、苦しんでいなければ腕が取れたって正常だ。病気のポイントは、当人が苦しんでいるかどうか、なのだ。これはすごく重要だけれどわかっていない人がおおくて不安になる。逆にいうと、才能に見える病気もあるということなのだ。さいばんの傍聴などにいくと、それがよくわかるというか、普通にかんがえてお金をはらわずにおなかが減ったからおみせのビスケットをたべちゃいましたってそれは犯罪で、法に触れるありのままはだめということになっています。それから、人にめいわくをかけるありのままはだめということになっていますね。いったい、ありのままとは。ありのままでOKなら人間はきっとさるの時代にほろんでいたよな。ありのままで通用する場面はいいけど、ありのままではいけない場面だってたくさんあるよな。だからありのままという言葉を便利に使いすぎないで、ちゃんと考えて使うことが必要だし、ありのままに依存せず、頑張ることだって必要だよな。ありのままでOKというありのままの用法は、きっと追い詰められた時の鎮痛剤であり、それが常用されてはいけないことなのだろうな。いきるのに我慢も必要だしずるい立ち回りだって時には必要かもしれないな。そういうことをもやもやもくもく考えていて最後には頭の中に灰色の空気が満ち膨張し、そしてそれは死だ。考え、思考、論理、倫理、悩み、欲求、ちょこれーとばななぱふぇ、最終的には死だった。あたりまえのことをかきました。でもそのあたりまえがむずかしいというはなしかもしれません。それから、やはりこういう文章は公にするべきものではないのだろうなと思いつつ、それでもぼくはこれを見られてもいいし、書きはじめる前から、書きおわった後まで、思いつきを思いつきのまま書いているから、書かなくていいまである。どうでもいい。しかし、どうでもいいことがもっとも重要で、またたのしいことなのかもしれない。どうでもいいという言葉は、自由を含んでいる。しかし自由よりもっとドライだからぼくは好きだ。どうでもいいことなら、ぼくはだれよりもうまく出来る。というか、どうでもいいからぼくは文章を書いている、ということさえ可能なのかもしれない。たとえばぼくはゲームが好きで、ゲームをする。ゲームをすることによってぼくはタノシミを得、またストレスを減じ、また(時には)生きることについて学び、ゲームのほとんどがプレイヤに効率化を求めていることは自明だけれど、ゲームとはつまりそういう思考を強化することによろこびたのしみを得ることの言いである。どうでもいいことをさっきからずっと書いているけれど、この文章は3日にわたって少しずつ紡がれており、増改築を繰り返して文章の途中に意味もなく言葉を挿入したりして、テンションも思想も統一されておらず、思考もぶつ切りで、だからがたがたのたわーのような形になっていて、直すつもりがそもそもない、それも楽しい。きっと文章というのは、こういう風に長い時間をかけて作る楽しみというのもあるのだろうなとさっきからしきりに感心していることだけれど、ひとまとまりの文章(まとまりはない)を書いた経験がほとんどないのでやはりまだ下手だった。閑話休題してゲームの話だった、それはどうでもいいことのよいファクタの話だった。ゲームというのはやらなくても基本的に人間が死ぬことはないし、本来苦痛はないはずだし、それが生きることに必須かといえばそうではないもので、だから白いシャツはどれだけ綺麗に洗濯をしても時が経つと襟が変な色になってくるので「これは捨てやすい服だなあ」と逆に考えることが可能となった。白シャツが好きなのでたかいのからやすいのまで買ったことがあるけれど、どの白シャツも必ず絶対に襟が変な色になって「これはすてよう」という気持ちになることが可能だった。ほかの色シャツではそうなることが不可能で、ついSDGsみたいなあるいは愛着みたいなお気に入りみたいな気持ちに感じに(そうではないにしても)なるのに困惑する。捨てていいものが捨てていいと告げられる白シャツをぼくはやはりすきだと思う。閑話休題してゲームの話だった。ゲームは生きるのに必要ないからたのしい。生きるためにゲームが必要になったら、たぶん、ゲームはすごくとてもつらいものになると思う。教育を受けてきたわれわれは、教育がどういうものかわかっていて、そして教育が(人間らしく)生きるために必要だということも分かっていると思う。そしてゲームが生きるために必要な必須要素であるならば、ゲームは必ず教育に含まれる。教育はほとんどの場合、苦痛を含むので、ゲームは苦痛になっていく。だからどうでもいいものとしてのゲームが、いまたのしい、ということになるのだとぼくは思う。部屋をそうじしているうちに一日がおわっていくのとか、最高だと思う。それから最高なのは、モンエナのオンザロックだ。ぼくはこどものころからエナドリがすきだった。エナジージム、オロナミンC、デカビタC、お父さんが自販機で買ってくれるそれらのエナドリを好んで飲んでいたから、大人になってもぼくはそういうのが好きで、さらに昨今のエナドリブームにより選択肢の幅が増えたことは非常に好ましい変化といえる。あのころはお父さんもエナドリを飲んでいた。お父さんはいつも会社の白いバンに乗っていた。埃っぽくて土の塊があちこちにこびりついていて、荷台には鉄の足場やワイヤーや工具が詰まったバンだ。汗と土煙のにおいのするバンだ。ぼくたちはそれに乗ってホームセンターに出かける。だからブルーカラーの家庭のことなら、ぼくはよく知っている。普通の家庭のことはわからない。二階建ての我が家を持って、お父さんもお母さんもきちんとした大学を出ている家庭? ぼくには想像もつかない。ぼくが暮らしていたのはもっと生きるためにリアルな、混沌とした世界だ。汗と土煙のにおいのする世界だ。ゆびのないおじさんが遊びにくる家庭。怒りと悲しみと煙草と酒と犬と蜂といくらとぞうりむしと山菜とたくさんの切り傷と嫌な噂話と自殺と暴力と狂気と病気と汗と土煙のにおいのする世界。ぼくはロックグラスに氷山みたいな氷を何個か入れ、その上からモンスターエナジーを注ぐ。白い氷の表面がわずかに溶けてなめらかな透明になってきれいだ。夏の日差しを反射してほうせきのようにひかっている。酒よりもよほどうまい。ウイスキーよりもビールよりもまちがいなくおいしい。エナドリオンザロックはぼくがいまいちばんおいしいと思う飲み物だ。これにかなうものは今のところこのせかいにはない。ちなみにやさいジュースのオンザロックもおいしい。どうでもいいことだ。つまりそれはさいこうってことだった。夏で、エアコンの効いている部屋でぼくはこれを書いている。時々小説を読んで、それからひなたで眠っている。