ほどく

 色々なことをして生きているし色々なことを考えているし、それをなんか書いておきたい気持ちはあるものの書いてない。
 書いてなくても困らないし迷惑にもならない。でもなんとなくもったいないなあという気持ちはある。
 それで、ひも状のグミがごちゃごちゃにからまったような感じの記憶をなんとかほどいて、書いてみようか。
 さっきからとてもすごく小さな黒い虫が目の前を通過していく夏の夜、まだ全然世界は眠くなっていない。

 やっと『論語』を読み終わった。体感としては2年くらい読んでいたのではないかと思う。
 論語は全然面白い本ではないとぼくは言いたい。面白い本ではないけれどもちろん面白い瞬間は時々はあるし、ためになるなあと思うことはあるにせよ面白くはなかった。でもいい本だと思う。僕が論語を読み始めたのは、おそらく論語が日本人の道徳の基礎の一部を担っているのだろうと当たりをつけたからだ。道徳とか倫理とか、そういうものってぼくの中にあるし、それは学校教育で習うことでもあるし生活の中で常々問題になることであり身近なものではあるのだけれど、じゃあ道徳とか倫理とか一体誰が考えたものなの? っていう疑問を感じていて、自分なりに調べた結果のひとつが論語だった。たとえば「年上を敬う」という道徳は、日本人には結構浸透しているけれど、誰がそれを考えたんだろう? 最初に考えた人がいて、その考えを広めなければそうはならないはずだ。自然界では年寄りはそれほど大事にされない。人の道があるからそれが広まった。論語は江戸時代に日本に広まって、それからたぶん昭和の頭くらいまで素読という方法で、ごく普通の学校教育の中に組み込まれていた、と思う。でもぼくらの年代になると論語は特に学校教育に姿を現さなかった、と思う。少なくともぼくは学んだ記憶がない。だからぼくにとって論語というものは、昔のおっさん達が学ばされていたなんか難しそうな本、という程度の印象しかなかった。実際読んでみると、孔子という何をやっているのかよくわからない人(実際何をやっている人なのかよくわからなかった。軍師でもないし農業のことも全然知らないし、たぶん孔子って旅しながら国家経営コンサルみたいなことをやっていたんだろうなと思う)が、弟子に向かって「あの国のあの人は偉いね、だってすごいことをしたもんね」とか「弟子のあいつは大したことないね、考えていることが小さいね」とか言っているだけの本で、もちろん言葉は鋭く本質を貫いていて、考え方や日本語そのものにダイレクトに影響を与えている、ある意味で日本語の源流になっている本だとさえ感じられるけれど、それでもなお思っていたより規模の小さな、もっと親しみのある本だった。孔子も万能ではないから弟子に痛いところを突かれて「うそうそ、さっきのはうそだよ~」みたいにごまかしたりもする。孔子は君子という何かすげーものについてずっと語っていて、君子というものに弟子も憧れていて、君子になろうってみんなが考えている、そういう世界の本だ。でもだからきっといい本なんだろう。読んでよかった。でもなにひとつ覚えていない。ぼくの推し弟子は子路です。

 VTuberにコメントブロックされた。心当たりはない。ぼくはつい最近VTuberにコメントするためのアカウントを作って、その上でコメントをしている。いつものアカウントは本名だからだ。それでいつもみているVTuberが、メンタル不調と視聴者からのヘイト増加により一時的な休止をすることになって、1カ月ほど休んだあと復帰したのが昨日で、ぼくはそのタイミングでかねてから企んでいたメンバーシップとかいうものに加入してみようと思い、実際にメンシに加入してコメントをしたらどうもVTuber側のコメントに僕のコメントの表示がなく、あれおかしいななぜだと思ってそのあとも何度かコメントをして確かめてみたのだけれど結局ブロックされていることが分かってきた。繰り返すも心当たりはない。長文とかは打ってないしもちろん荒らしてはいないし当たり障りのない初心者みたいなコメントしかしていないのだけれどそれでもなおコメントブロックされるなんてことがあるのだろうか、理由がまったくわからないけれどコメントがVTuber本人に見えていないならむしろコメントを書く必要もないので書かない方がいいのだろうか? えっ、ということは配信も見ない方がタレント的にはいいのか? みたいなことを色々考えてしまった。コメントとは視聴者の存在が配信上で唯一浮き彫りになる場所でありそこを封じられると、なんというか存在自体を否定されたような気持ちにわずかになる。ぼくはコメントが読まれるとか読まれないとかは考えたことがなかったけれど、まったく絶対に読まれることがない、という状況になってみると考え方も変わってくるのだということが分かってきた。この小事件から学ぶことはたくさんある。人間の気持ちなどというものはわからないということもそうだし、ぼくがいろいろ考えることがどれだけ無駄かということもそうだ。そもそもコンテンツにコメントなどは必要ないのかもしれない。ぼくは配信をコンテンツとして、映画のように一方的に消費するだけで満足していい。それはもちろんそうなのだ。考えることが無限にある。そもそもぼくはVTuberをすごく面白いと思ってみたことがない。4,5年は見続けているけれどあんまりおもしろくないなあといつも思っている。それでも嫌いではなくいつもちょっと面白いので習慣として見るようになったけれど、いまになってコメントブロック、というはっきりとした負のリアクションを得てぼくはその事実をちょっと面白いとすら思っている。ショックはショックだけれど、面白いなと思っている。ぼくはきっとぼくのような人が「反転」するのだろうなと思って反転アンチについて調べ、そして世の中の反乱軍とか革命軍とか抵抗軍も同じような感覚からうまれていくのだろうなと思った。突然、理不尽な何かが起こる事で、余剰エネルギーが生まれる。それは行き先を求めていて、どこかへ向かっていこうとする。ぼくはコメントブロックされたVTuberの配信を今日もみていて、決して読まれないコメントを打っている。そしてなんというのか、その虚無の文を、まったく新しい気持ちで見ている。これからどうするのかはまだ決めていない。VTuberが好きな友人に「ブロックされたんだけど」とLineしてみたら「認知されてるなんて……嫉妬した!」と返信が来た。世界は広い。着眼点と価値観が、今日もどこかで生まれ、醸成され、死んでいくのだろう。

 ゲームをクリアした。pcにようやくグラボをいれたので、pcでゲームができるようになった。半生を据え置き機派として生きてきたけれどゲーミングpcも良いものだ。動作チェックのために少し要求スペックの高いfallout4(それでも7年前のゲームだ)をsteamで買ってインストールしてプレイしてみると画質はとても良かった。動作も滑らかでなるほどグラボというものはたしかに効果を発揮するというか、廉価なグラボでもそこそこちゃんと綺麗に動くものだなあと関心した。それから会社の人とfallout4の話をしている時、ニューベガスのチームが作ったOuterWorldというゲームがありますよと教えてもらい、教えてもらったその日にインストールを終えていた。それからいつもの一日7時間ほどの肉体的修行のようなゲームプレイが始まる。目、肩、手首の激痛は当たり前で、膝、足首、さらにはお尻への負担も激しく、ゲームとはいえ全身がひどく痛めつけられている。それはぼくのほとんど唯一の望みであり、夢、希望、願望、欲望、とにかくそういうもののほとんどを含んだ時間となってぼくの現在の価値観を支えるものであり、子供のころのぼくは本当に今のぼくのような生活を心の底から望んでいた。ぼくはそれを手に入れている。ゲームの無限プレイ。マックデリバリーでダブチとビッグマック、ポテトとナゲット、爽健美茶とコーラを一人で全部平らげながら青い照明の部屋で朝から夜まで夜から朝まで延々と孤独にひたすら全力でゲームを続けるこの生活をぼくは望んでいた。これこそがぼくの本質的な生き方で、望みで、好きなことなのだと改めて思う。ぼくはこういうぼくになりたくはなかったけれど、ぼくが望む生活をしている、と確信している。結局のところ、願えば叶うという言葉はある意味で本当に的を射た言葉なのだ。ぼくはそう思う。というか願わないものは身につかないし、特に得ても嬉しくない。願ったものに対して人生が指向性を帯びることが願うことの本質的な意味なのだ。たぶん。ぼくは願ったことのほとんどを、年単位の時間をかけながらかなえている。けれどそれはぼくがかなえざるをえなかったことばかりなのだ。それはなんというか、ほとんど逃げるようにして叶えた願いばかりなのだ。願えば叶うけれど、願いは人生をある程度規定する。だからきっと願い方はとても重要になってくる。願いをかなえる方法ではなく、正しく願う方法の方が重要なのではないかと僕は思い始める。
 一週間程度でOuterWorldはクリアした。非常に面白いゲームだったけれど、何が良かったかというと「月が大きいのがよかった」と僕は思う。これはとんでもなく素晴らしい事なんだけれど、あまり伝わらないだろうなあとも思う。ゲーム性には関係がない美術のところの話で、ゲームは宇宙を飛び交うトラブルメイカーの話だから、各惑星から見える空の模様は大きく変化する。その美しさがはっきり言ってゲームの内容よりも優れていた。散歩シミュレーターとしてオープンワールドを楽しむ勢が世の中にいるということは聴いたことがあるけれど会ったことはない。ぼくはオープンワールドrpgについては散歩半分くらいの人生プレイが好きで、やり直したりはしない。選択肢を選んだら間違いでも最後までそのまま進めるし、寄り道もたくさんする。そして今回のゲームでは、空模様があまりに美しかったので、眺めのいい丘でずっと巨大な月を見ていた。朝から夜に変わる空をずっと見ていた。それは地球では絶対に見ることのできない、壮絶な空だった。