ワインドアップ

 夏が大きく振りかぶって、投げた。36度炎天下。常識を奪う熱気が押し寄せた。ふりそそぐ光、反射するソーラー・レイ、また光線がゴースト・フレアとなって拡散して、輝いて輪郭を失う物体の白、獣臭漂ういつもの夏がまたやってきた。生と死と混濁した意識が逃げ水となって砂漠の地平線に浮かぶ蜃気楼の名前をいつも忘れてしまう。あの都市の名前をどこかで聞いたことがある気がする夏は、いつも同じ夏だ。ぼくは玄関のドアをあけ放って、雲一つない青い空を見た。それはしっかりと観察したから間違いない、雲一つない青い空で、玄関に立ったままのぼくはぬるいバドワイザーを飲みながら、部屋の冷気を外の熱風と混合しながら、空を見ていた。家の前の大きな通りの車の流れを見ていた。三輪オートが鉄材を運んで、その後ろをてりてりのポルシェが突くように追いかけていた。排気・ガスの匂い何層にも重なる騒音。夏の光はブライトな白。閉められたカーテン、人間の気配のないマンション。夏が大きく振りかぶって、投げた、と思った。36度は立っているだけで眩暈がして脳の中心が痛む。汗が滴り重力が変動する。ぼくは立ち向かいたくなって正気を失って玄関のドアを開け放って何かを摂取しようとしている。それはおそらく、南アジアの人間が感じる夏で、でもそれを言語化するのはとても難しいことで、それはエアコンの効いた部屋では得られない何かだということだけは、はっきりと蝕知している。生物としてのぼくは、おそらく冬眠状態から目覚めるために熱気を得る必要があるのではないか、暑すぎる、という感覚は一時的にでも生きるために必要なものなのではないか、と思いながら健康診断へ向かった。
 健康診断では、いまだに身長が微増していた。そして体重が激増していた。身長というのは一体いつまで伸びるのだろう。生物の大きさは種族によって規定されているけれど、たとえば成長を止める遺伝子が壊れた竹は、宇宙まで伸びていくのだろうか? 軌道エレベーターみたいな、軌道竹が生えたりするのだろうか。そういう竹があるという話を聞かないことに何か意味があるのだろうか? もう背が伸びたって仕方ない歳ではあるにせよ、体重が増えることは健康上望ましくはないので、寝る前にペペロンチーノを食べたり、コーラを鯨飲したり、そういうことはよしなよ。という紙資料をもらった。20代と思しき無精ひげの、声の小さな医者がぼくの腹や背に聴診器をあて、針が刺さるまで実況中継をしてくれる看護師が腕から血を抜き、腹に吸盤をぽんぽんつけ、血圧を測り、そして何度も何度もソファーに座らされ、壁面に埋め込んであるテレビを虚無となった顔で眺める無数の患者たちの灰色の一人となる光景も、やはり夏の一部だった。毎年、暑くなってきてから指定のクリニックに向かわされ、そのたびに都会のど真ん中にある濁り池の傍らを通り過ぎるのだけれど、池の上に浮かんでいるボートには糸を垂らす釣り人が立っていて、小さな桟橋のたもとには、これもこぢんまりとした釣り堀が構えており、それも夏だった。暑かったので麦茶を飲んだ夏だった。水も夏だった。半袖のおじさん夏だった。ラーメン、夏だった。全部塗り替える夏だった。ぼくは大勝軒に向かった。
 大勝軒チャーシュー麺を注文すると1350円もかかる。正気とは思えない価格設定だ。1000円を超えるラーメンだなんてばかげている。誰がそんなもの食べるんだ、と思いながらぼくは大勝軒に入る。そういう矛盾には名前がついていますか。店内は蒸気。蒸して暑く湿って狭い。飛空艇のエンジン室みたいだ。席についているのはむくつけき肉体労働者風の男や枯れて折れたようなおじさん達しかいなくて「ああこういう人たちが来るんだったな」と思い返している。女子中学生がいてもまったく問題はないにせよ、厨房のお兄さん方もオラついているのだからやはり元々がかたい空気であることは否めないし、麺の量が普通の麺店の三倍くらいあって洗面器サイズの器だし、店構えだって時代がついている。「こういう店って入りづらいよな」と話しかけると、「そう? でもひとりだったら入ろうと思わないかも」と彼女は言う。そもそもこの店に入ってみようと思わない、関心の外にある、認知することができない。薄いチャーシューが何枚もあるので少しずつ食べ、最初からやたら柔らかい麺は時間と共に伸びて倍増しているので少しずつ食べ、そしてスープを飲み、それを延々と地獄のように拷問のように続けているうちに食べることの苦痛を思い出している。ぼくは太宰治を思い出している。ぼくが太宰を好きなのは、食べることに対して苦痛を持っているという共通点があるからでもある。ぼくは知り合いの中で一番食べるのが遅い遅食家だし、すぐに苦しくなるので家族にも食べることに関して笑われながら生活してきた人間なので、食べるということに関してはトラウマのような感情があるにせよ、味覚に関してはそこそこ自信がある。ガストのドリンクバーで適当に作ってもらった泥みたいなミックスジュースを飲み、何を混ぜたか当てることすら可能だ。だからきっと泥の中にもコーラと白ぶどうの味が隠れている。それは苦しみの中にも快があるみたいなことなのだろうか? でもそういう考え方はあまり好きではないな。1350円ぴったりをレジに置きながら、ぼくはバスに乗って隣の町に向かっていた。選挙の期日前投票の場所が隣町だった。
 この町に越してきてはじめてバスに乗った。ぼくは故郷の町でバスを使ったことがなかったし、電車にもほとんど乗ったことがなかった。だからバスや電車にいまだに苦手意識があるし、東京のバスかつ電車はどこも入り組んだダンジョンで暗号で、とても難しくて面倒くさい。という印象が植え付けられているのだけれどちょっと調べるとバスも便利に使うことが可能だ。隣町までバスの中で居心地がよい。ぼくはバスが好きで、乗っていると休日の実感が増す。電車は仕事に使うけれどバスは特別な日にしか乗らない。窓の外を景色がゆっくり流れていく。人の入っていないファミレスがデザートののぼりを立てている。おばあさんがひとり、歩道を砂漠の生き物のように歩いている。それから甲虫のようなせかせかと走り回る車達が熱を放射し続ける惑星。隣町の役所に入ると思いの他静まり返っていて、気が付けば役場は休日だ。案内されたエレベーターで上の階にあがり投票を済ませると出口は各部署の受付の前を通るルートで、デスクの上に積み重なった膨大な量のファイルがまるでドラマのセットのようで、普段の激務が容易に想像できた。人の気配だけが濃厚で人のいなくなった世界。普段はたくさんの人間があっちこっち走り回って声を荒げて何かと戦っているんだろう。ゾンビ映画のような役場から出ると薄暗い静寂の室内からうって変わって駅前の熱波。人いきれ、浴びるだけでめまいがする光から逃げるようにして喫茶店に入った。
 油断していると見逃してしまいそうな、老婦人がひとりでやっている喫茶店です。と食べログに書いてあって、その時に感じた使命感を今もまだ衝動として覚えている。いかなくてはならないと思った喫茶店の入口のドアは開きっぱなしで、狭い室内の真ん中に一台あるテーブルには文字通りの老婦人が、色々な帳簿を広げて事務仕事をしていた。いつものぼくならその姿を見ただけで(迷惑になるといけないから)帰ろうとするところだけれど夏だったから「こんにちは」と入ってみると、「あらあら……」と夫人が戸惑いながら帳面をさっと片して、「おひとり様なら窓際の席へ」と案内してくれた。部屋の隅の、薄く開いた小窓の脇の席で、目の前には歌劇か何かのワンシーンの写真が飾ってあり、そのとなりには立派な絵画が飾ってあった。「もっとエアコン強くしましょうか?」「あいや大丈夫です」「そう? エアコン強くしたいんだけどね、ほら通気しないとコロナによくないから」と夫人は気さくである。ぼくはえへへと愛想を振りまきながらロイヤルミルクティーを注文する。「あまみはどうしますか」と問うので「お願いします」と答えた。そして出てきたロイヤルミルクティーは、今まで飲んできたロイヤルミルクティーの中で一番甘くて、ミルク強めの、高貴さなんかまるで関係ねぇといわんばかりの、庶民的なおいしさのある懐かしささえ感じるロイヤルミルクティーだった。ぼくは窓の外に輝く町並みを見ながら、次はどこへ行こうかと考えた。そしてそういうことを考えている自分をひどく愚かしく感じた。行き場がないと感じたし、生きることが突然全部むなしくなった。どこにも行きたくないし、帰りたくもなかった。地図の中にもネットの中にも答えはなく、人生の中にも他人の中にも答えはなかった。そんなものは未来永劫どこにもない。喫茶店には、ぼく以外の客はいなかった。老婦人の家族とおぼしき女性が店の奥の扉をばしんと開けて「あたし病院に行ってくるので!」と元気な声を出した。なんだかジブリみたいな喫茶店だなと思った。飲み物を干して立ち上がるとき、目の前の歌劇の写真の真ん中で片手を上げて踊っているドレスの女性の正体は、もしかしたら老婦人なのではないかと思った。「コロナに気を付けてね、また、増えてきたから!」出ようとするぼくの背中に老婦人が声をかける。老婦人は一歩が30センチ幅で、とても小さく移動する。ぼくは気を付けます、と答える。ぼくの外に物語がある。そしてその物語はぼくの中で完結する。だから本屋へ向かった。
 本屋に行って本を買うことと、本を読む事とは違う楽しみがあるのだ、というのが今日の結論だ。いくつかの本を立ち読みしながら店内をじりじりと移動していくのがぼくのスタイルで、棚を見ているだけで楽しいので時間がどんどん過ぎていく。気になる本はほとんど無限にあり、店舗ごとにラインナップや傾向や力の入れどころが違うので書店ごとに楽しみがあるということになるから、同じロイヤルミルクティーだって店によって味が違うように、新刊だって扱われ方が違って、そういう差異だって楽しいとなると終わらない。ある棚の前でふと立ち止まり、ずっと読んでいる作家の新刊が出ていることに気が付いて久しぶりに時が止まった。とてもひさしぶりだ。全世界に向かって「新刊出たよ」って教えたくなるようなうれしさを感じる作家は、ぼくには二人しかいなくて、そのうちのひとりは、もう15年も新しい本を出していない。15年。あまりに遠く、長い渇きだ。ほんとうに長い年月だ。ぼくもすっかり歳をとってくたびれた。でもまだずっと待っている。書店に行くたびに、もしかしたらって思っている。これまでも待っていたし、これからも待っている。死ぬまで待っていると思う。それほどまでに好きでいられる世界をくれたことに感謝とかして終わらすべきなのかもしれないけれどぼくはゆるさない。いつまでも待っている。もう一人の作家は、竹宮ゆゆこ嬢だ。彼女はずっとコンスタントに書き続けていて、ラノベから一般文芸に移籍して、それでもまだラブコメを書き続けている。今の日本にラブコメを書いている人ってどれくらいいるのだろう。ラブコメを書き続けられる人って何人いるんだろう。たぶんものすごく少ないと思う。純粋なラブコメを書き続けてほとんど伝統芸ぐらいにまで極めていて、それはすごいことだと思う。ぼくは新しい本を手に取ってレジに持っていき頭の中で店員さんと会話している。竹宮ゆゆこについて。そのすごさについて。ぼくは本を読むために家に帰る。どこへも行き場所はないと思っていた思考は霧散している。指向性が感情を形作ることもある。
 鞄に新刊を入れてバス停に並んでいた。日差しは依然として強く、世界は白く飛んで何がなんだかわからない色の塊になっている。前に立っていた学生のワイシャツがまぶしく、ふと彼の襟首に何か動くものをみつけた。よくみると小さな茶色の甲虫である。甲虫はのろのろと襟を移動している。とってあげた方がいいのだろうか、迷っているうちに襟の頂上まで登りつめた。次の瞬間、背中が二つに割れ、固い羽と柔らかい羽を二枚広げ、風をつかんでさっと飛び上がった。虫はどこへ行くのだろう。しらない。夏の光の中を、自由に飛んで行けばいい。