プロ

 結。
 今日は8時間、落語を観てきた。いわゆる寄席というやつだ。
 落語の何が面白いのか説明するのがとても難しい。1500字くらい書いてみたけど全然駄目だった。
 落語はもちろんお笑いだし、部分的にロックだし、落語は小説だし、ドラマだし、youtuber的ですらある。それぞれが特性の集合でありユニークな要素をぼくは抽出できない。噺家さんが話しているところはもちろんユニークだけれど、それがぼくにとって最もすぐれたアピールではない。たとえば、身振り手振りのないCDで聴いたとしても落語は面白いからだ。それならばオーディオブックと差別化することができない。
 おそらくぼくは落語のエンタメ表現技法的なもの(もちろん劇場の雰囲気とか噺家さんのスタイルはとても面白いと思うし好きだけれど)よりも、その物語的な特性にユニークさを見出しているのではないかと思う。
 もっと細分化して考えてみると、ぼくは文芸の一種として落語を観ているのだろう。その物語伝達手段のシンプルさにおいて文芸と落語はぼくの中で近似している。
 だから、ただ単純に「落語の物語は面白い」んだ。

 起。
 ぼくは時々、寄席に行く。知り合いに落語好きだという人はいないので、基本的にひとりで観に行く。
 落語はとても面白い娯楽なのだが、あまり流行っていない。劇場にいるお客さんの九割はぼくより年上の方である。彼らはたぶん、きっと、自信はないけど、落語リアルタイム世代なんだろうなと思う。落語レジェンドの立川談志さんを生で見ていた世代の生き残り。談志さんを知らなくても「笑点」なら知っている、という人はいっぱいいると思うけれど、その「笑点」という番組を作ったのが談志さんなので、なんというか、とんでもないレジェンドなわけであって、談志さんが生きていた頃の寄席は、たぶん現在の数倍は盛り上がっていたんじゃないかと予想している。
 ぼく自身は談志さんをほとんど知らない。youtubeで昔の映像を少し見たことがあったり、初期のM1の審査員だったなというくらいの認識しかない。ぼくが落語に最初に興味を持ったのは、父の影響だ。
 父は落語などほとんど興味を持っていなかったのだが、患いをして長期入院していた頃、なぜか急に落語を聴きたがって「落語のCDを買ってきてくれ」と頼まれたことがあった。ぼくと姉は落語のCDを何枚も買って父に届けた。それから間もなく父は他界した。
 ぼくは何故最期に父が落語を聴きたがったのか、とても気になった。そこには意味があるはずだった。意味があってほしいと思った。落語を聴くようになったのはそれからだ。
 死を目前にした人間は、落語に何を望んだのか。
(この起は前述の1500字の一部をリサイクル利用しています)

 承。
 3時間が経過した頃から猛烈に尻が痛くなってくる。それはそう。なぜって映画でさえせいぜいが2時間弱の鑑賞時間のところを3時間ですよ。尻も限界を迎えてくる。この劇場は昼夜入れ替え無しなので最大8時間寄席が見られるという太っ腹な劇場ではあるが、それにしても朝から晩までずっと観ている人はそういないと思う。肉体的な疲労が非常につらい。トイレにも行きたくなる。しかしせっかくだからと尻に力を入れて居座っている。寄席というのは、実は落語ばかりやるわけではなく、落語の合間に奇術、神楽、漫才、漫談、講談など面白いことをいろいろやるので見ていて飽きない。ああ伝統文化だなあとほのぼのした気持ちになるし、純粋に鍛え抜かれた技術に驚きもする。この人たちは誰もかれも幾千の舞台、幾万の視線をくぐり抜けてきた歴戦の勇士なのだ。半生を舞台の上で過ごしてきたのだ。そして次々と発見が押し寄せる。プロでも舞台では滑るし、滑っても必ずリカバリすることとか、本当にたくましい。そういう姿をプロだと思う。尊敬さえしてしまう。若手は大きな声で元気よく、ご老体はたっぷり間をとって重厚に、早口の人、もちゃもちゃ喋る人、人が人を演じることにこんなにも発見があるのか。落語とロックは根底でダメ人間を肯定するコンセプトを持っているけれど、なんというのかな、落語は人間が大好きなんだ。ロックってちょっと人間が嫌いで、それでもいいよって言ってくれるところがある。落語のほとんどはクズが主人公だけれど、そんな愛すべきクズを笑いですくいあげる。落語は人間が好きなんだ。

 転。
「え~、われわれの職業は嘘が八割真実が二割でございまして」と舞台の噺家が言った時、ああこの人はかっこいいなと思った。
 この人の嘘は、信用できる。