だめでもともと

 世の中のあらゆる物事は「だめで元々」で、無数の失敗の上に今のこの時間があり、極論を書くならば隕石が落ちてきて地球滅んでしまうかもしれないし、考えても仕方ない要素は結構あると思っていて、だから選択というものには価値観が必要になって、価値観は人それぞれで、それでいいよなあと思う。

 今日は休日で、天気は晴れ。最高気温は35℃。
 早急にやらなければならないことがひとつあって、それは5分で終わるんだけれど、その5分で小さめの隕石が落ちる。だからぼくはいつまでもやるべきことを避けている。小学四年生の夏休みと同じことをしている。やってもやらなくてもいつか人は死ぬし、そのことが今はすがすがしい。人生はいつもだめで元々だったし、その言葉がぼくをここへ運んできた。
 ぼくは今、人生でもっとも穏やかな日々をすごしている。重度の疲労の中で、その実感はぼくを生かしてもいる。

 昨晩も何時間かたるこふをした。
 たるこふとは一体なんなのだろうか、ぼくは結構そのことについて考えてみる。
 ぼくにとってどんな意味があるのだろうか、という意味だ。
 たるこふのよいところは、敵を倒さなくても家に帰ってこれることだと思う。
 ぼくは戦場でごみをひろい、家に帰る。そしてもっとごみ拾いが楽になるような道具を買う。
 ぼくは戦場を散歩する。晴れたり、雨が降ったりする場所を歩き回っている。そして家に帰る。
 この状況はたぶん、ものすごく原始的な人間の暮らしを再現している。
 ほら穴の外がすべて人間の敵だった時代の生活は、きっとこんな風だったんだろうと思う。
 獣のにおいや音に敏感になること、食べられるものを探すこと、それから開けた場所を何も考えずに歩いていること、その楽しさ、そしてそれがどれほど危険か本当はわかっていること。
 そして家にかえること。

 散髪をしに行った。
 床屋に入るとすでに何人か待っていた。
 遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
 ぼくと、隣に座っていたおばあちゃんは、通り過ぎていく救急車を見ていた。
 救急車が通り過ぎると、おばあちゃんは新聞紙に目を落とした。ぼくはスマホで本を読んでいた。
 昼下がりののんびりしたラジオが何か楽し気な話をしていた。
 また救急車のサイレンが近寄ってくる。
 ぼくとおばあちゃんは顔を上げ、それが通り過ぎるのをじっと待っている。

 この町へ引っ越してきてそろそろ二年になるけれど、その温泉には行ったことがなかった。
 行こうと考えたことは50回ほどあったけれど、いつも気が変わって避けてしまっていた。
 今日、やらなければならないことを避けていたから、逃避エネルギーが発生しぼくを勇気づける。
 あるいはぼくは、この日のために温泉をとっておいたのかもしれない。
 新しい刺激というものは、一度使ってしまうと、新しくなくなるものだ。
 そしてなんというのか、新しい刺激を弱めるために、新しい刺激を加えることを、ぼくはたまにやる。
 露天風呂には椅子を並べたおじさん達が伸びていた。風呂に入っている人より伸びている人の方が多かった。
 セミの声がすぐそばでしていた。日差しが強すぎて頭頂部が異常なくらい暑くなって驚いた。
 小さい滝みたいな水流が近くにあり、目を閉じるとずっと昔の夏を思い出した。
 春秋冬は毎年違うのに、夏だけはいつもおなじ夏が来ている気がしている。
 風呂上がりに地下の食堂で醤油ラーメンを食べ、ビール(小)を飲んだ。
 地下の食堂の醤油ラーメンはすごくやる気のない味でよかった。スキー場のラーメンだ。たまに食べたくなる。
 大人になったなあとぼくは思う。ひとりで椅子に座ってビールを飲みながら。

 帰宅して『プラットフォーム』という映画を見た。
 すごく嫌な映画だったけれど面白かった。でもすごく嫌な映画だった。しかし大事なテーマを描いてもいる。フィリピンのスラムで売られているパグパグという食べ物は、ごみ箱から集めてきた残飯を再調理して作られる。それを汚いだとか言ってられないから食べている人たちがいる。食べるっていうのはとても大切なことだ。

 それから気が付くと眠っていた。
 夢は見なかった。

 また環境が少し変わりそうな気配がある。東京に来てもう10年になるけれど、まだまだずっと長い旅行をしているような気持ちもある。慣れてしまったところもある。同じ夏の中にいることもある。けれど変化はこれからも続く。いろいろなことがたくさん起きるだろう。今までがそうだったように、これからもずっと激動の中で、できるだけのんびりやっていこう。

 目が覚めた。
 ぼくは冷蔵庫から冷ややっこを出してテーブルに乗せる。
 そして昆布しょうゆをかけておいしくいただく。
 夏です。
 何もないけど気分がいい。