夏の一頁

 まだまだ夏のせいでミネラルが蒸散してゆきます。
 都会に住んでいると、幾分も色彩が目に訴えません。匂いもそれほど変化は無いのかもしれない――川縁の町ほどは、もちろん遥かに人工的であるために。ただ恒星から降り注ぐ光線の強度のみが増しているような。気温と人々の服装だけが機械的に変化しているような。つまり操作可能な表層に変化があり、そのほかは体感として少なくなっていましたから、それで仕方なくスイカバーやガリガリ君冷やし中華、とろろそばなどによって四季に適応した本能を抑制しているのかもしれないって、思うんです。いつの間にか老人になっていた、という目に会いたくないから、飽きもせず誕生日会を催すように、転ばぬ先の杖、抑制剤のヒントとして次のような質問を繰り出してしまう可能性はゼロではありません。「夏らしいことしました?」
 脳が熱に弱い理由です。

 お母さんからメッセージが届きました。「お元気ですか? コロナにかかっていませんか?」
 私はにわかに正気を失ったような気持ちになりました。夏は現実と幽界が融け合い世界の輪郭は曖昧になります。自分が健康かどうか判別がつかないし、新型コロナウィルスというものを体感しないままに何年もの時が過ぎてゆきます。世界中を包んでいる禍が、身の回りに存在しない時に感じるのは、世界との一体感の喪失です。それは疎外感に似ています。自分がどこにいるのが正しいのか、見失っている感覚です。

 会社の同僚とハワイアンダイナーにゆき、トーストを食べマンゴージュースを飲み、それからチキンの丸焼きのハーフを食べハワイアンビールを飲んで、それぞれ家に帰ります。
 早朝のハワイアンダイナーにもすっかり慣れてしまいました。チキンの丸焼きは、フィクションに登場しそうなルックスでインパクトがありますが、食べ方が非常に難しいものでした。ナイフで骨から皮と肉を外していく作業の過程で、肉はボロボロのミンチ状になってしまいます。上手く綺麗に切ろうとすると、無駄が増えてしまう。それなのでむしろ丁寧にボロボロの肉片にしてそれをまとめて食べるということをしました。辛いチリソースがおいしかったです。
 そのとき、同僚と面白い話をたくさんしたのですが、メモを取っていなかったので内容を失念してしまいます。でも同僚はひとつの示唆的な発言をして、その言葉についてはメモを取らなくても覚えています。「ものをつくる人とお客さんの間には、距離が必要ですよね」
 人間は人間以外のものに憧れます。
 
 眠っていると、携帯が嫌なふうに震えました。意思を感じさせる震え方です。
 反射的に起き上がり、テーブルの上で震えている高精細ディスプレイを手に取りますと件の先輩の名が。
 2秒ほど画面を眺めまして、それから通話ボタンに触れます。名乗ります。すると先輩が雑音交じりのジョークを言いまして、私はほのかに笑います。それから1時間ほど、沈黙がちな通話をしました。
 彼は自動車を運転しながら話しているようで、走行音や振動がひどく騒がしかった。なぜ電話をかけてきたのか要領も得ず、おそらく少し手持無沙汰になったから電話でもしてみようかなと思ってくださったのでしょうが、私としては何か重要事でもあるのかとはらはらしているところです。これは個人の価値観ですけれど、用事がない相手に電話をするということが、私にはありません。そのため、電話をするということはすなわち重大事を意味しているわけです。しかし世の中の人間は、意味もなく長電話をするらしい。どうもそういう文化圏の人もそれなりにいるようだ、と思い出させてくれるのは件の先輩がまさにそのようなコミュニケーション文化を有しているからというわけです。
 緊張感も最初の10分ほどのことで、私はすぐに無意味を悟り、会話を回そうとも思わず、自然な流れに身を任せます。そもそも睡眠中に起こされ、寝ぼけ頭でなんとか会話を続けている状態であるということもあり、しかも休日に先輩から意味なし長電話がくるという状況は、消費することです。私は数えきれないほどの相槌を打ち、それからTwitterで見た言葉を思い出しました。“人と会う、は全然休憩時間ではない”
 どなたの言葉でしたでしょうか。真に迫っているようでした。
 自明のことかもしれませんが、もし人と会うことが休憩であり回復であるなら、面会謝絶や絶対安静という言葉は存在しないわけです。医療のひとつとしてそのような言葉があるという事実は、人間の関係がそもそも消費を意味しているということの証左でありましょう(その事実が良いとか悪いとかではありません)。それを関係の原理のひとつとして私は思考を展開します。この電話は一体、何を意味しているのか?

 高校時代の友人達と、高尾山に登りました。行きはリフトで、帰りはケーブルカーで。
 山頂でVTuberの動画を見る冗句などをして、道中はただ歩きながらひたすら笑い話をして過ごしました。汗を流しながら、曇天の空の下で、テーマを『ゆるキャン△』として、自撮りなどを繰り返し、大変愉快な時間です。ケーブルカーに乗る前には、山の上のビアガーデンという、物珍しいところで暴飲暴食をしたりもしました。眺めも空気もよい天上のビアガーデンは、しかしそこが人間の酒席である限り、見慣れた酔客共の痴態の場でしかないわけです。そのように考えるなら、人類に対する諦念もにわかにパーセンテージを増します。山を下り温泉で汗を流した後、私の家にみんなで行こうという話になりました。私の家は來る者拒まずの姿勢だけれど、実際に人が来たことは少なく、そのために接客を全く考えていない作りになっているので、到来した友人たちは所在なく部屋の中に突っ立ち、困っていました。座ればいいし、寝てもいいし、立っててもいいし、帰りたかったから帰ればいいのですが、こういう時の人間というのは、たとえ友人でさえ遠慮が効き過ぎ、どんくさいものです。私は人の家で「座って」と言われたらすぐ座るし、「寝てもいい」と言われたら一度は寝てみます。自分の、ある種の「あつかましさ」をトレーニングしてきたことは、むしろ品性を良好にしたとさえ思っています。部屋の中に突っ立ってしまうことは、誰も幸福にしません。

 絵を描いたり本を読んだり、youtubeを見たりアニメを見たりして過ごしています。
 そろそろ八月も終わりを迎え、秋がやってくるでしょう。私は夏らしいことをしたでしょうか?
 その答えはもちろんYESです。
 しかし、夏らしさはもう思い出の中にしかあり得ないようにも考えています。