うつくしいって

 うつくしい文章ってどこにしまったっけな。
 時々無性に「うつくしい文章ひとつください」みたいな気持ちになることがあるのだけれど、じゃあ美しい文章ってどういうものなのかって感覚を、外黒は結構昔に失ってる気がして、昔はもちろんあったのだけれど、うつくしすぎて涙がこぼれたりすることなんて当たり前だったし、だから当時感動した文章を読み返すことも可能なんだけれど、それを今読み返してみても、外黒は昔の外黒ではなく今の外黒なのであんまり感動しなくなっていて、それはその文章に飽きてしまったというよりも、その文章がすでに心の一部になってしまっていて離れないみたいな、思考の核と同化してしまっていますみたいな、というかその文章が今の外黒の文章の源泉になっている感じがして、だから当たり前になっている、普通になってしまってスプラッシュしない、という状態がさみしい、現実感消失症さえある、というよりも文章を書く動機の大きな割合を占めている愛が削れられているのが苦痛だ、という気持ちがあって、じゃあどうするかとなったら、また一から、またぼうけんのしょのはじめからはじめるしかないんだよなってわくわくして躁鬱の嵐の中を小船で縦断している。
 
 ていう文章を書いてから文章を引用しようと思って『ゴールデンタイム外伝 二次元くんスペシャル』竹宮ゆゆこ作 を流し読みしていたら号泣してしまった。やっぱりいいものはいいんだ。全然慣れてなかったし外黒の一部にもなってなかったよ。ゴールデンタイムはシリーズ全巻読んだけれど中でも外伝の二次元くんスペシャルだけが異色というか、異色ってほど本編と離れているわけではないんだけれどテーマが明らかに『創作』で、作るとか描くってどういうことかということが描かれるし、なんというかゆゆこ嬢が鍛え上げてきたラブコメ力の総決算的なところがあるように思えてならない。おそらくなんだけれどゆゆこ嬢は少女漫画の構造を少年向けラノベでやっていて、だから結構えぐい現実の一筋縄ではいかない人間の心みたいなものを鋭い筆致でえぐり出していくんだけれど、ガワはずっとラノベの体裁を保っているという、とにかく並の作品ではないんだけれど、それは竹宮ゆゆこが結局はラノベを離れて一般文芸のレーベルで書くことになる原因のひとつというか、ラノベの枠で収まらないことを書こうとしていたのは二次元くんスペシャルの段階でもうわかっていたことで、人間のこころを操ることが小説の使命だとしたらその力がすごく強い人は色々なことをするだろうという意味で、いやでも最近のゆゆこ嬢の一般文芸の作品よりも結局は二次元くんスペシャルが優れているというか、なんというかとにかくこの本編ではない外伝の出来が良すぎて、本編は全部売ってしまったけれど外伝だけはずっと大事にもっているくらいで、でもなんというかこの本はラノベの様式美、というよりも“美少女“というものに対するアンチテーゼ的要素があるというか、そういう存在を概念化して考えたことがある人のためのギャグだから好きだし、すごいと思う、というか好きなんだけれど、この本を色々な人に読んで貰いたい気持ちはあるにせよ、しかし誰にでも理解できる本でもないよなと思っていて、すごく狭い層に向けて書かれていて、これはぼくのための本で、ぼくのために書かれているならそれは誰かのために書かれていないという論理です。男オタク向けの本かというとそうでもないし、かと言って一般男性が読んですごく面白いかというとそうでもないと思うし、ちょうどその中間くらいの、中途半端な人間に刺さるように出来ていて、類似作品にはNHKにようこそがあって、でもNHKにようこそは若者であればだれもがシンパシーを抱いてしまうところがあるじゃん? ないけど、でも少なくとも主人公の姿をギャグだと思って笑って楽しむことは可能で、でも特定の人には刺さる。刺さるという言葉は痛みを伴うという意味で、でもとてもいい作品で、10代~20代の迷える男性は義務としてNHKにようこそ!を読むべきだと思うんだけれど、そして二次元くんスペシャルもそんな人達がやはり読むべきだと思う。で、結局、つまるところ、二次元くんスペシャルとNHKにようこそ!の亜種は太宰治じゃん? というかその始祖というか、ど底辺創作者の地べた這いずり人生街道みたいなのって何故かものすごく面白いんだ。だから太宰が美少女(概念)を書いたらたぶんめちゃくちゃ面白くなると思うんだけれど、でも太宰の作品で一番好きなのは畜犬談です。泣いたら疲れてしまった。もう書けない。うつくしい文章について書こうと思ったけれど、文章そのものの力に圧倒されて終わってしまった。もうおしまいだ。すごい。たぶん10年後に読んでもぼくはこの文章で涙するんだろう。
 
 

 

駅前に花を配るおじさんがいました