やにわにダークネス

電車の中でこれを書いている。

電車の中は独特のにおいがする。蒸気みたいな感じの、人間の凝縮された気配みたいなもの。21gの魂が少しずつ染み出した空気。白いスニーカーのソールの脇に、泥まみれの長いごみが付いている人から目を離さない。みみずだろうか。それとも昆布かもしれない。面影かもしれない。

ぼくは記憶力に乏しく、集中力がりんご3個分で、でもぼくの魂はきっと2kgくらいある。ぼくが死んだら死体の体重を測ってくれたら、きっとそれくらい軽くなっていると思う。しかし命はバルーンのよう。そして今、胸の奥の重力変動源は質量を増してヘドロのようにへばりつく。

外黒さんが言うんだから相当なものだと思っています、とぼくをよく知らない人が話してくれた、ぼくをよく知らない人の根拠の薄弱な言葉は、それでもわずかに昼下がりのアイスロイヤルミルクティーのようになごんだ。それはまさしくティータイムのティーのようだった。外黒さんが我慢できないことなんて、誰も我慢できないと思います。いやそれはまるでぼくがなんでもかんでも我慢しまくっているおばかさんみたいな言い草に聞こえないこともないんだけど、いやでもそれは事実か。事実だからいいか、とすぐ諦めた。ぼくは我慢マン。我慢マンは我慢し過ぎて死ぬマンでもある。あの人若いの? 若くは見えないなあ、と話しかけられて、ぼくはエエ、エエ。と愛想笑いしながら頷いた。若いか若くないか、なんて気にしたことがなかったから、これが親父ギャグってやつかと思えるようになるまで5分かかった。ある種の人々は、パワハラとセクハラに依存して生きている。気持ち悪りぃなあちょっと黙ってろよとぼくは思う。しばらく黙ってろよ、風が頬を撫でるまで。

きりんの首が長いのは高い木の葉っぱを食べる為だと思っていたけど、別な説も聞いた。🐎足が長くなったからだ🐎という。ぼくはそれを聞いて心底感動した。とても、素敵だ。ぼくがぼくになったのはきっと、ぼくが知らない理由があるのだろう。ぼくの足はみじかい。

傷つくと尖る。傷つくと尖るんだなあとぼんやり考えて歩いた。蒸し空気、曇天を透過する紫外線、26℃は夏の残骸の9月。幻みたいなふにゃふにゃのアキアカネが何かを探して彷徨っている。傷ひとつないものとは、つやつやでつるつるで丸っこくてすべすべで照り照りだけど、傷つくとざらざらでがりがりでばりばりで、撫でると手に刺さったりする。人の心も同じだ。傷つくと尖る。傷つくと尖る。

行きつけの立ち食いそばで食べ慣れたかつ丼定食もりそばを食べているとき目の前の窓の桟にごきかぶりが佇んでいるのが目に入り、しばらく見つめ合ったあとどうしようかなあと思った。なにがどうというわけではなくどうしようかなあと思った。この店にはまた来るし、もりそばもかつ丼もうまい。しかしどうしたらいいんだろうなあ。この虫はぼくよりずっと強力な常連だ。人間より長くずっとしぶとくこの地球をサバイブしてきた一族なのだ。

今日のフィナーレ。電車の端っこの席に座っていたら隣に誰か立ってその人が髪の毛の長い人でぼくの首筋で毛先を遊ばすな。めちゃくちゃくすぐったくて避けようにも避けられず口元がへらへらしそうになるが、きっと状況を知らない人から見たら急ににやけだしたやばいやつみたいに見えてしまうだろ。ぼくは心頭滅却し親が20人くらい死んだ人の気持ちになろうと努力してみたがさらさらの髪の毛が執拗に首筋を責め立てる。あまりのストレスに発狂したぼくはこうして文章を書いている。ぼくらの狂気はいつだって野生のひまわりみたいに狂い咲いていた。

ひさしぶりにガリガリくんを食べた。なぜか死んだ犬のことを思い出した。小柄な雑種で、蛇に噛まれて死んだのだと言われた。母は小学生のぼくに死体を見せたくないと思い、ぼくが帰宅する前に埋めてしまった。そんなことをするべきではなかったのだ。だれにも、ぼくと犬の最期の別れをさまたげる権利はなかったのだ。死を隠すのは、死を奪うのは、死んだものにとってさえ罪悪であるとぼくは思う。だれからも死を奪ってはならない。ガリガリくんをたべながら、そんなことを考えた。