無職に興じる

 もはや自由人の名を恣にしたぼくは、ひとときの快楽をむさぼる化物になる。無職。

 昨日、一番面倒な最後の処理を終え、社長と対面で1時間ほど話し、無職になった。こうなると人が聞くのはまず第一に「次はどうするの」であることを経験した。次も頑張ってくださいとか、次もまた同じ職種ですかとか。いろいろな方に何回も何回も聞かれた。ぼくはこう答える。

「無職です」

 つまりみなさんにそう言って恥じることのない生き方をしてきたわけだし、そういう生き方がぼくのやりたいことであることは、もう明らかなのかもしれない。らもさんとブコウスキー山頭火が好きです。自由とは何かってずっと考えてきて答えは無数にあった。働いていても自由な人は自由だし、無職でも不自由なこともある。ぼくは今、自由を得て、そして自由を感じ、自由に振る舞うことが出来るけど、真の自由とは狂気そのものだし、狂気に陥ることがない自由などはおままごとに過ぎないけれど、それでも社会の歯車からスピンオフした番外編の時間が今は楽しい。いずれこの幸福が消費され尽くした時、どうなるかということさえ身に覚えがあるにせよ、である。長くは保つまい。ぼくはぼくにとてもやさしい。

 昨晩は退職した会社に勃興していた地下組織的なVtuber愛好家達の催した送別会に出席させて頂き、プレゼントを頂き、寄せ書きまで頂き、楽しく話し、そしてVtuberを見るなどしてオタオタしくも感動し、寂しいですとか、外黒さんロスですとかいわれ、もしかしてみんな、外黒のこと好きすぎ!? が現実のものとなった。愛され過ぎている。でも過大評価だとは思わない。外黒はキャバ嬢だと言われたあの日から、ぼくのサービスに対価が支払われているだけに感じている。そりゃぼくのこと好きになるよな、こっちは生まれた頃からずっとサービスを強いられてきた、いわば天然のサービス業なのですから。とヒロイック(もしくはヴィランチック)な気持ちもややあった。与えられた気持ちに感謝はすれど、恩には着ない。どうせ貰いものの命でした。地を這うように生きていこうと思う。というか、もし恩に着たら「命がいくつあっても足りない」が発生して無駄。誰もぼくに自害してほしいなんて思ってはいない。帰宅して横になって動画を見ているうちに身体中が霧になって何もわからなくなった。

 本日は記念すべき無職の元旦である。インディペンデンスデイと呼んでも過言とはなるまい。カモミールは相変わらず倒れ続けている。根が弱かったのかもしれないけれど、草のことは分からないことだらけだ。倒れた茎はもう戻らないのだろうか。抜いて確かめるわけにもいかないし。仕事もないのに午前7時に起きて、なおいっそう元気いっぱいの朝である。

 カーテンを開け、窓を開けた。最近の日課だった。人間はカーテンを開け、窓を開けるべきだ。

 話題のガンエボをDL後インストールして6時間ほど遊んだ。ポップなFPSが久々だったので面白さもひとしおであったが、やっている途中で既に「無駄だなあ」と感じている。FPSというものは本質的にはゴールデンアイの昔から何も変わっていなくて、だから面白いんだけれど、だからどこにも辿り着かない、何も産まないゲーム性も変わっていない。このゲームはあまりやらないようにしようと何度も思う。他にやりたいことがあるのにゲームもまあまあ面白いと思ってしまうどっちつかずさが結局のところ一番よくない。

 夕方、何週間か前に約束していた飲み会を決行することに。ここ三日間、毎日人と飲み会をしているので新鮮味は失われている。そしてこの三日間でぼくは一度も金を払っていない。ぼくは何かの天才か、あるいは何かが決定的に欠損しているのではないかと思うことがたびたびある。他人に何かを与えられすぎるということについてだ。

 やはり人と会うのは時々でいいとは思うものの、みなそれぞれ違う環境の人達だからそもそもスケジュールを合わせるのでさえ難しい中、ぼくと会って話をしようと思って頂けるだけでありがたいことだと思う。でも感謝し過ぎても気持ち悪いからあまり感謝し過ぎないようにもしたいけど感謝はしている。青山ブックセンターに行きたいと言うので渋谷駅から歩き、青山ブックセンターに着いてから「じゃあ見終わったら連絡してください」と言われ、既視感を覚え、複数人で本屋に行く時ってみんなこうなのかなとモデルケースが増える。ぼくは本屋の中を徘徊し、本を見る。1時間くらいそうしているうちに、もしかしてもう飽きてるんじゃないかと不安になる。見終わったらと言われていたのでじっくり本を見てしまった。本屋にはいようと思えばいつまでもいられるのでちょうどいい時間がぼくにはわからない。本屋の中で「日本人が書いた、日本語の、日本人離れした小説が読みたい」とメモをした。そういう小説が読みたい。半径100mの話じゃなくて、大陸レベルの話。

 そのあと東陽町ステーキ屋で、知能指数のとびきり低いでかい肉を食べた。ばかげたステーキ。ぼくの無職祝いだそうでおごってもらった。そこでひとつわかったんだけど、散歩、風呂、読書と同じくらい「ステーキ」が良い。ストレスが減る。これは牛丼でもすた丼でも焼き肉でもしゃぶしゃぶでも得られない減少値であり、やはり「ばかげたステーキ」でなければならないのだと思う。ステーキがそもそもハレの日のイメージを担っていることは大きな要素のひとつであろうし、昔おもしろいブログを書いている人がステーキを焼いて食べたという文章を書いたあの日から、ぼくの中でステーキは特別な位置を占めている。最終的に一緒に行った方が珍しく飲み過ぎてぼくが心配することになった。いつも飲み過ぎて心配されるのはこちらなので、酔っぱらいを見るのは不思議な感じがした。まっすぐ歩いてないし、電信柱にぶつかりそうになるし、意味不明なことをずっと喋り続けてるし、いつもぼくがこうなのかと思うと笑ってしまう。ひとりで帰れると豪語して聞かないので真夜中の東陽町に酔っぱらいをひとり放流した。それが願いならぼくはそうしたいと思う。助手席の人、傍観者、沈黙の地蔵、あらゆるぼくのゴーストがそう告げている。誰かの意思や願いに口を挟まないぼくは、もしかしたら神様の一部なのかもしれない。