30分で幸福論

 スピードが増して特に考えることもなくぼうっと過ごすことができたらどんなに素晴らしいかということを考えているうちにコミュニケーション能力を喪失し、何も話すことがなくなり、書くことも特になくなってきた。これがスピンオフ。社会と個人、などについてもやもやと考えることはあるものの、それよりもトイレの掃除をしたり、卵を茹でたりしなければならないような感じがして、全然ピュアじゃないなって相変わらず考えたりした。砂漠に咲いた一輪の黄色い花、そういうものになりたかったけれど、どうやらぼくは海綿生物のようなものらしいとセルフイメージがややグロい。生きているうちに楽しいことをし、楽しいことをみつけることをしよう。しあわせが歩いて来ないように、楽しいこともまた自ら捜索願いを出して貼り紙をして聞き込みをしてようやく見つけ出せるようなものなのかもしれない。詳しい事はよく分からないけれど、ぼくは祖父に会ったことがなくて、祖父はぼくが生まれる前に二人とも死んでいた。だからずっと前から死というものはずっと近いところにあったのだな、とかを洗濯機回しながら考えているうちに午後2時になっていて、今日は何をしたかなって振り返るまでもなく、特に何もしていない、ということが発生した。曇り空だった早朝と打って変わって午後2時は晴れ、昨日からずっとそこにいたのか窓枠に居たカメムシを匂いの棒でぶっ飛ばした。匂いの棒というのはアロマ壺に4,5本刺さっているあの黒い棒のことだ。それしか捨ててもいい棒状のものがなかったんだけれど、防衛機構により臭いを発生させるカメムシに対してムスクの香りの匂い棒で戦ったのはなんというか思想バトル的な側面があるなとひとりほくそ笑む。生きていて、生きていることを考えていない。そうやって眠いから寝るということをした瞬間に野生の牛の気持ちがだんだん分かってくる。猫が道で寝ているのは眠いから寝ているわけであって、つまりこの根拠なき睡眠、利益から最も遠い野生的睡眠がむしろ自然的・野良的・動物的であるとということを考えた。人類の至上命題がはたらかなくても生きていける、かどうかはわからないけれどきっと何かやっていなければ人間というものは幸福を感じられないものなのだろう。これは死についての本を読んだ時、そのようなことが書いてあったからなんとなく覚えている。ただ生きているだけでは幸福を感じることができない。不満足である。ということが発生する。たとえばベッドに寝たきりになって栄養をチューブで体に流し込まれ、「永遠に幸福な夢を見させ続けられる装置」があったとしたら、その人は幸福だろうか? という思考実験では、どうやらあんまり幸福ではないような気がする、と感じる人が多かった。というものであって、その気持ちはよくわかる。ぼくの価値観では、不幸ではあり得なけれどやはり幸福でもなさそうな感じがした。たとえば気持ちがよくなる薬物を永遠に接種し続けて死ぬというのも同様、やはりあまり幸福ではなさそうだ。ではどうすれば幸福であれるのか、幸福とはどういうものか、というのは個人の価値感の上で規定されるものだからなんということもできないけれど、やはり孔子の言うように中庸、つまりバランス最高ということになるわけなんだけれど、中庸でいましょう、と言われると反発心みたいな気持ちがもりもり湧いてきて、それはそれはで小市民的な幸福っぽくてそれほど賛同したい気持ちにならなかったりもする。もちろん小市民的な幸福は幸福に間違いないんだけれど、中庸の人生、中流階級的な結婚してマイホームを持って課長になってゴルフ行ってたまに旅行して、みたいな生活を想像してみるとそれが本当に幸福なのか孔子さん、ぼくにはどうもそうは思えないぜ。という気持ちになってくるから、では、そのうえで、最終的に、ぼくの幸福とは何か、ということを考えてみると幸福というものは長続きしないためずっと幸福を保ち続けるというのは不可能であるので、どんな幸福状態も永遠ではなく、幸福と不幸は常に必ず入り混じって訪れるものだ、ということが考えられた。であるからして、幸福と不幸を交互に味わうことが総合的に幸福な人生であるということなのかもしれない。田舎生まれのぼくは田舎が大嫌いだったけれど、東京に10年住んだら田舎がとても好きになって田舎に行きたいなあと言う気持ちになった。これがとても重要なのだ。田舎に行きたいなあという欲求が生まれたら、田舎に行けばいい。そういう欲求があるということを芯がブレているとか、過去の自分の言動と矛盾しているとか考え始めると途端にバランスが崩れる。一貫性というものは、一貫性を幸福だと思う人間が持てばいいだけの要素であり、一貫性を幸福だと思わない者(それが中庸であると思うのだが)は振れ幅の中で好きなこと、やりたいことを選んでやることが必要であり、それが幸福に近づくことなのではないか。要するに模範的中流階級的生活結婚マイホーム子供は二人課長になってゴルフ・旅行は、それが「ずっと続きそう」という面で不気味であり気持ち悪い。なのでその生活も時には辞めていいとぼくは思う。とても難しいかもしれないけれど、その一貫性(生活)が好きだという人は続ければいいと思うし、その一貫性(永遠の安定)がちょっと疑問だなと思ったら中庸であるために振れ幅をむしろ自分から作り出す必要があるのではないかと思う。幸福は歩いて来ないのだから。
 ぼくは田舎と都会を行ったり来たりすることで中庸のバランスを得、そして欲求を得る。そして振れ幅の中で安定外の経験をも得る。スピンオフ的な生活というのは、きっとそういうものなのだろうと思う。外黒さんは点と線じゃなくて、点と点なの。何かと何かが繋がっているんじゃなくて、点がたくさんある人なんだよ。と、昨日ある人から電話で言われた。
 そうかもしれない。と思ったし、そうじゃないかもしれない、とも思った。