あけましておめでとうございます

 ほとんど寝ていないまま新年を迎える。
 部屋は昨年に引き続き散らかりっぱなし、まぶたは腫れ、頭はぼうっとし、いつまでも布団の中でだらだらしていたく、一年が終わったという実感も、一年が始まるという実感もないまま、シームレスに2023年=令和5年が起動する。
 飛躍して「やる気」というものも5段階くらいのステップがあるんじゃないかと思った。やる気を出せ、と言われていきなりマックスモチベーションにトランスフォームすることってないんじゃないか。やる気にはやる気の論理や仕組みがあって、正しい手順を踏まなければやる気というものは出ないのではないか。そして「やる気」というものは行動の核となる部分であり、最重要パーツなのではないか。たとえば1000万円の高性能なスポーツカーがあったとして、このスポーツカーを運転するときに必要なのは高出力なエンジンでも新開発のタイヤでもブランド物のハンドルでもなく、ちっぽけな車の鍵だ。大概の人間にはきちんと機能する肉体があって、その肉体を起動するためのやる気が付属している。やる気は、やることの数だけ用意されている。鍵と同じように。読書を起動する鍵、仕事を起動する鍵、風呂に入ることを起動する鍵。
 じゃあやる気ってなんなのか。分解するとマズローの欲求5段階説とリンクしているのではないか。去年からずっとこのマの5について考えていてだんだん飽きてきたけれど、やはりあのモデルを参考に考えると便利なのだよな。生理的欲求が満たされていない、となれば生理的欲求を満たすためのやる気がみつかるようになっている。腹が減った、松屋に行く、牛丼を食べたい、というやる気の論理がある。この段階を踏むことで新しい欲求が生まれる=新しいやる気がみつかる、ということなんではないかと考えた。だからなんというか、いきなり5の5の自己実現欲求=自己実現へ向けたやる気って出ないんじゃないか、出ることは少ないんじゃないか、出る人は少ないんじゃないか、という風に考えられた。つまり、疲れている時に未来に向けた勉強とか出来ないんじゃないか、ということをぼくは言いたい。「やる気が出ない」ときには、より下層のやる気が目覚めており、それが満たされていない状態なのではないか? そしてそしてつまりつまり、ぼくにやる気がないのは、ぼくがどの層かで必要なやる気をみつけ忘れているからなんじゃないか? 2023年1月1日、いまだにぼくの思考の根幹にはゲームがあり、欲求=やる気=鍵=フラグは繊細に絡み合う概念として存在している。鍵と鍵穴ってめちゃくちゃ面白い。あと本物と偽物についても考えている。2023年はそんな感じでやっていこうかなと思っているものの、どこを探しても書くやる気が出てこないので、やる気を探すやる気をまず、どこかに買いに行く必要があるように思います。自分の中にないものは、いくら探してもないので、外部から取り入れる必要があるよねということです。
 新年あけましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願い申し上げます。