地の果て

 サイバーパンク2077のメインシナリオをとりあえずクリアした。
 12月29日から始めて1月4日2:53の段階でプレイ時間は79.8時間だった。何度も寝落ちしたので放置時間がかなり含まれているにせよ、メインシナリオにボリュームあったなあという印象。普通にプレイしても1週間はみっちり必要になる感じ。大変おもしろいゲームだった。
 2020年12月10日のリリース当初、期待が非常に高かったのにバグだらけでまともにプレイ出来ず、あまりにもクレームが多かったので返金対応まで行ったことは記憶に新しい。ジャンルがサイバーパンクの段階でぼくもずっとやりたかったんだけれど、ゲーム自体のお値段も高額だったので手を出せずにいたのであるが、もうリリースから2年も経っておりバグも改善されているだろうし、年末のスチームのセールで半額になっているのに気づいた瞬間に購入した。
 シナリオが進行不可となるような致命的なバグは発生しなかった。ひと安心である。だが、軽微なバグにはそこそこ遭遇した。一番気になったのは、始めてサンデヴィスタンを装備して試しに使ってみた時、バグのため全く起動しなかったことだ。始めて使う道具だったのでどのような効果があるのかわからず、起動しているのかしていないのかさえ定かではない状況で悩んだ。ゲームを再起動したら使えるようになった。サンデヴィスタンが起動しないバグは割と頻発するみたいで掲示板でも見かけた。時間値でキャラクターから連絡が来るタイプのミッションで、いくら待っても連絡が来ないバグもあった。ゲームを再起動したら連絡がきた。そのほかにも空から車が降ってきたり、人間が地面に埋まっていたり、色々とおかしなことが起きたけれど、ナイトシティではどんなことでも起きるので、特に嫌な気持ちにはならなかった。小バグ程度ならむしろ愛嬌である。
 ぼくはこのゲームをとても気に入っている。このゲームというか、海外産のオープンワールドRPGをやったあとはいつも「このゲームが好きだな」と思っているので、サイバーパンク2077が特別というわけではなく、出来のよいオープンワールドRPGというジャンル自体を気に入っているんだろう。そこでもう一歩踏み込んで自己分析をしてみると、オープンワールドRPGの何が好きかって、結局「地の果て」感が好きなのだろうなと思う。オープンワールドRPGの舞台って「地の果て」が多いのだよな。というか、RPG全般の前提に冒険があって、冒険に向かう地は常に地の果てなのだから、それはRPGの基本的な舞台だと言えるのかもしれないけれど、それがオープンワールドとなると自由さが際立ってくる。この自由さが、前提条件の冒険の冒険感をブーストしていて、だってルートの決まった冒険なんて冒険じゃないものな。リニアな展開のRPGももちろん面白いんだけれど、様式美的な映画・アニメ的な受動的な物語の楽しみ方はできるんだけれど(そしてその面白さを突き詰めている小島監督のゲームは、もはやゲームではなく映画なんだけれど)、そもそもゲームというものの強みは「キャラクターを操作することができる」という点にあって、「物語に介入している」という体験がエキサイティングなわけであって、その強みを最大限に生かそうと思えば、好きな場所に行くことが出来るオープンワールドという仕組みは「ゲームにしか出来ないこと」の完全な姿なんではないかとか、考えます。小学生の頃、ファミコンをやっていたぼくは、このままゲームがどんどんリアルになっていったら、いずれ「壁を壊せるゲーム」が出来るのかもしれないな、と夢想していました。ゲームをあまりやらない人には伝わらないかもしれないけれど、ゲーム内の壁というものは、絶対に壊れないものの象徴でした。でも、現実的に考えれば、壁なんてぶん殴り続けたらいつか壊れるわけです。木のドア程度くらいだったら爆発魔法ですぐ壊せるだろうに、この勇者たちはなぜそれをやらないんだろう、あほなんだろうか、ってずっと思っていました。オープンワールドは、今まで絶対的だった壁を、いまもひとつずつ破壊してくれています。たとえば町の中の人を殴ることができます。これは昔のゲームでは考えられなかったことではないでしょうか。いや、たけしの挑戦状では殴れたか。というかたけしの挑戦状ってオープンワールドだったんじゃないかって気がしてきました。ともあれ、オープンワールドは好きな所に歩いていけるし、服を着替えれば見かけが変わるし、好きな乗り物に乗ることが出来るし、どの派閥の味方になるかを選ぶことだって出来るようになったし、様々な建物に勝手に入ることも出来るようになって、自由度は格段に上がって、だからこそシナリオにない、プレイヤーがそれぞれ紡ぐ物語が生まれることになるわけです。それぞれの冒険をすることが出来るようになったわけです。これは素晴らしい事だと思います。スカイリムの開発者は「ゲーム内のすべての建物に入れるようにしたい」と言ったそうですが、ぼくはその言葉にとても感動しました。この人もきっと、一度は「壁」について真剣に考えたことがあるんだろうなあと、勝手に思ってしまいました。なんでもかんでもリアルにすればいいというものでもないけれど(リアルなんて現実で充分なので)、リアルだからこそ出来る表現というものも、たくさんあるとぼくなんかは考えているわけです。
 地の果ての話に戻る。スカイリムもフォールアウトもアウターワールドGTAもRDRもダイイングライトもサイバーパンク2077も、舞台は地の果てである。北欧系の山とか、カタストロフ後の荒野とか、惑星とか、荒れ果てた町とか、西部劇みたいな荒野とか、ゾンビで荒れ果てた町とか、未来の荒れ果てた町とか、全体的に治安が悪い。荒野か荒れ果てた町だ。掃き溜めみたいな舞台がとても多い。ブリ―とかウォッチドッグスも荒れ果てた町といってもいいんではないか。デスストランディングは荒野。考えてみると、品行方正な人ばかりが住む綺麗な町が舞台だったら、ゲームとして全然まったく面白くないんだろうなと思う。それでは冒険にならないんだろうなと思う。冒険に出るためには、何かが悪い、何かのために世界は荒廃している、という前提が必要になる。そういう世界でなければ、きっと主人公は会社と自宅を往復するだけの生活を送っているはずで、それならゲームにする意味がないものな。いや、ある。ときメモとかになる。ザ・コンビニとか。品行方正な綺麗な町のオープンワールド、これからあるかもしれないな。ああ、ぼくのなつやすみだ。規模の大きいぼくなつ、現代日本のデスストランディング、危険のない絶体絶命都市、おもしろいかもしれない。やさぐれたじじいが主人公とかどうだろうか。寿命が尽きる前に何か大きなことをしたいと思っているじじいが主人公で、都会に越してきたばかりで、三丁目のじじいと四丁目のじじいが抗争を繰り広げたり、ライバルのじじいの老人ホームに潜入してポリデントをバブにすり替えたり、様々なおばあちゃんとのロマンスがあったり、ミニゲームに将棋と囲碁とゲートボールは絶対あるな、移動は序盤は公共交通機関なんだけど後半はシニアカーが手に入るようになって、盆栽のコンテストで金を荒稼ぎし、メインシナリオが全く思いつかない。不法入国の子供を匿うことになるとか、そういうのがいいかもしれない。いや幽霊とか妖怪とかが出てきて、そういうものが普通の人間と一緒に町の中を歩いていてじじいにはそれが見えていて、陰陽師じじいが妖怪をどうにかする話の方がいいかもしれない。ゴーストワイヤートウキョウと被るかもしれない。ゴーストオブツシマもあるのか。和風のオープンワールド系ってゴーストってタイトルが合いそうな感じするものな。やっぱり素朴なのがいいかな。ぼくのなつやすみにかけて、『わしの命日』にしようかな。限りある時間を大切にしようというテーマは夏休みも寿命も一緒だし、高齢化社会に一石を投じる作品になりそうだ。
 ぼくは地の果てを散歩するのが好きだ。さまざまな世界の景色を見て歩いているだけで何時間でも過ごせる。現実ではあまり目にすることがないような、魅力的な景色がオープンワールドにはたくさんある。サイバーパンク2077の世界は、ブレードランナーを観た時のわくわくがそのまま再現されたような町で、ただその町があるというだけで満足しました。舞台だけではなくサイバーパンクならではの要素が満載で、先行作品へのオマージュも豊富でにこにこします。犯罪とかドラッグとか暴力とか死とか狂気とか性とかが猥雑にぶち込まれた闇鍋みたいな世界でも、体に機械を埋め込んでも、それでも人間は人間として生きているんだなあって、なんか思いました。ぼくの体は血と肉と骨で出来ているけれど、たとえばぼくから腕を切り離したら、その切り離した腕はまだぼくなのでしょうか。切り離された段階でそれはただの物で、ぼくの一部ではなくなるのでしょうか。そして、切り離した腕の代わりに機械の腕をつけたら、その腕はぼくの一部なのでしょうか。それとも、ぼくのオリジナルのパーツではないからただの物なのでしょうか。もし魂を機械にインストールすることができたら、その機械は人間なのでしょうか。なんてことは、マザー2でさんざん考えさせられたわけですが。体に機械を埋め込むことは、SFではなく、すっかり現実となっています。

 さまざまな文化と機械と肉と、ARとVRと魂とが、ぐちゃぐちゃに入り混じった地の果ての町は、人間ってなんだろうって考える時間はなくて、もっと野蛮で、人間くさい懐かしさがありました。それはおそらく、秩序の町からは生まれない人間らしさなんだろうなと、ぼくなんかは思うわけです。