競艇場でジャズを聴くとおじさん力がアップする

 昼過ぎにむっくりと起き上がる。
 今日こそは何か行動らしい行動をしなければならないという使命感に駆られる。
 昨日は部屋に引きこもってcharaと一緒に歌ったり、キャンプ用の毛布をマントのように装着して踊ったり、窓辺に佇んで「つばめの巣ってコンクリみたいに固いのはなんでだろう」って考えたりしているうちに過ぎて行ってしまい、それはそれで得難い幸福がミリグラム単位で含有されていたのではあるが、それにしても心的な陰に踏み込み過ぎた一日となってしまった。
 なってしまって構わないのだが、心的な外聞の悪さが結局は負い目となる。
 つまり、心的な客観性が「きみは何をしているんだい?」と問うてくる、その答えに「うーん、何って言われてもぼうっとしているんだよ」としか答えられない、その状況が心を徐々に蝕んでいくのです。
 蝕んでいく状況が分かっているなら、その状況を変えればいい。つまり最低限の心的な言い分を作っておくことが生活者の知恵というものなのです。
 ぼくは「気休め」という言葉が世間では少し悪く言われ過ぎなんじゃないかと思っていて、気休めをしない人の気は死にます。気休めはとても重要なのです。むしろ積極的に気休めの時間を作ることが現代人の急務とさえ言えると思います。以上が心的な言い分です。
 
 多摩川競艇場に行こうと考えた。サイトを観ると主催が有りだ。つまり今日はレースをやっている日だった。すでに13時だったので着くのがかなり遅くなってしまうけど行くことにした。ぼくはギャンブルをほとんどしない。昔はちょっとしていたけれど大きく賭けても勝てないし、パチンコなどで負け始めた時の血の気が引いて恐怖と不安と苛立ちで頭の中が埋め尽くされ、それでも投資しなければ負けが取り戻せないのでリアルな冷汗をかきながら血走った目で突っ込み続けてしまうというあの地獄を二度と味わいたくない。そういう思いは人生で一回やっておけば充分だった。だから今日、競艇場に行くのはギャンブルではなく読書をするためだった。競艇場というのはギャンブルをするところで読書をするための場所ではない! 出ていけ! と言われたことは一度もない。喫茶店はコーヒーを飲む場所だけれど読書している人も仕事している人もマルチ商法の勧誘をしている人もいて、それが許されている(マルチ商法の勧誘が許されているんだったらもう大概は許されているように思う)。だから競艇場も適当に舟券を買ったらあとはずっと読書していることが可能だ。そしてぼくはそれが好きだ。
 
 ぼくは昨日、読書のことが嫌いになった。でも読書は続けている。嫌いになったくらいでは、やめたりしない。友情も仕事も結婚も、そうじゃないかな。コインの表と裏みたいなものでさ。どっちの面が出ていても、その価値は変わらないし、そこにあるんだ。好きでも嫌いでも大してかわりゃしねえよ。大事なもんなら握りしめておけばいい。それだけのことよ。
 
 多摩川競艇場には相変わらずおじじがたくさんいる。草食動物のようにのんびり歩くおじじ達だ。椅子に座るのに5秒くらいかかる。かわいらしい。おじじ達は何か決まりでもあるのかと勘ぐってしまうくらい「ポケットのたくさんついたベスト」を来ている。釣りの時に着るようなやつだ。なぜだ。なぜあれを着るんだ。ぼくもおじじになったらあのベストを着たいと思うようになるんだろうか? そこには何か集団的な幻想があるようにさえ思われる。帰属意識の表明とでもいうべきか、一種の制服のようなものなのかもしれない。友人は競艇場にいるおじじ達を「前歯がない人達」と表現したことがあって、ぼくはそれにも笑いながら共感してしまったのだが、ある場所に集まってくる人たちの共通の要素って観ていて面白いなあと思う。ぼくの前歯もそろそろ抜けるのかもしれない。

 競艇場についたら発券機の前で全レース分の舟券を買った。5レースしか残っていなかったので、1レースにつき1枚買って500円だ。コーヒーより安い。運がよければプラスになる可能性さえある(みんなその可能性を目指して買うわけだけれど)。ぼくは誰が勝ちそうだなとか、誰が調子悪いなとかはわからない。ギャンブルをしているわけではないので、競艇に詳しい人と話すことも出来ない。ただなんとなく出走表を見て勝率が高い人達を二人選んで連複で買っておしまいである。それ以上悩んだりもしない。ぼくはスタバで飲み物を注文する時にはおたおたしてしまうが、舟券はすぐ買える。多様性である。
 
 レースが行われる池のすぐ目の前にずらりと並んだベンチに座ってジャズを聴いた。午後の陽射しが水面をきらきらと輝かせていた。日光を浴びた体が暖かい。平日の昼間から競艇場でジャズを聴きながらレースを待っているとは、否が応にもおじさん力が上がってしまうというものだ。こうして少年は立派なおじさんになっていくのかもしれない。少年はいつかおじさんになるものなのだ。その時、競艇場に行こうかなという選択肢をきちんと持っているおじさんに、ぼくはなりたいと思う。というかもうおじさんだからその選択肢は持っていて、だからまだ青年だった頃のぼくを褒めてあげたい。色々なことをやってきたな、お前さんはよ。そういえば死んだ父は子供のぼくをたまに競輪場に連れて行った。あの時の親父の気持ちを、ぼくは少し分かるような気がする。親父は体が小さかったけれど筋骨隆々の人でラグビーで賞を貰ったことをずっと誇りにしていた。ぼくは引っ込み思案で心配性で極度に人見知りで恥ずかしがり屋で、親父とは正反対の子供だったから、きっと心配されていただろうな。こいつはまともに生きていけるんだろうかって、そう思われていたように思う。運動嫌いだったから親父には物足りない子供だったろうし。でもまあ、案外大丈夫だったぜ。ぼくもおじさんになるまで生きてこられたぜ、親父。それで一人で競艇場に来てジャズを聴きながら読書とかしてるぜ、父よ!
 
 17時。全レースが終了した。ぼくは上着のポケットに突っ込んであった舟券5枚を破り、ゴミ箱に捨てた。おじじ達がヌーの大群のようにのんびりと出口に向かって歩いていく。枯れて色あせた集団だ。ぼくの横を子供が駆け抜けていった。子供は前を歩いていた父親の手をつかんだ。二人は明るい出口を目指して歩いていった。頭の中にビ・バップが流れている。混ざり合ったり渦を巻いたり止まったり始まったりして、音楽は続いている。