チートデイ

 今日は文章的チートデイだから(今、そう決めたから)ストレスを、ストレスのままにここに書き記す命の削れる音がする日々を生き抜いていますか。ぼくがもっとも好きな文の形は――今年の目標は基礎と初心です――言葉と言葉の意味がほんのすこしだけ隣接しているだけで存在を互いに許し合っているようなかたちで、それは本来ほとんどのところ意味を成さず、というよりも僕以外の人間には言葉の機能が不全であるという程度の、一般的な普遍的な言葉であらわすならばいみふめいが飼っている犬小屋……みたいな、それも1時間で作ったかんじの犬小屋……みたいなぶんせうで、でもそれがなぜ好きなのかとか、そういうのがなぜ感動するのかとか、そういう感情的な部分は伏せようと思いますそれで、最初の理由に戻るんですけど、最初の理由ってのはつまりストレスのことなんですけども、今日、渋谷のタワーレコードという場所に行ってきて、結論から申しますと、タワレコがぼくはすごくすごく気に入って、行ったことがありますか、ぼくは今まで、そっこそこ長い事生きてきて行ったことがなかった、渋谷のタワレコには。なにせトーキョーに来た頃にはもうAmazonがあったから、それに田舎に住んでおった頃にだってAmazonがあったから。ほしいものはAmazonが届けてくれたから、でも本当に欲しいものは、たとえば満天の星空の下においた一台のベッドと、そしてやさしいかぜとか、トーストの焼ける遠いにおいとか、鍵が開いた瞬間のひらめきに似た響きとか、体長3mの犬の腹のやわらかいけのさわりごこちとか、組み立て家具の説明書にそっと書いてあった「木の側面に触れるととげが刺さることがあります」という涙が出そうなくらいまっすぐで素敵な注意書きとか、そういうのはないの。Amazonには、そういうのはないの。でも、あったから、大半のものは、Amazonに。だからタワレコというのは、そもそもオシャ圧(隠者はことごとく感知するオシャ圧)とかがあってバリアで近寄りがたい感じがするから遠ざけていたけれど、でもそれはぼくの年齢の増加(人間の年齢の増加と西暦の増加は比例する)によってある意味で無視できる範囲の圧となっていた。つまり、年齢が増加するという点の有利な点はメンタルが強くなるということではなく、メンタルが鈍麻するという点である、と体感的に納得。とある知人が「ぼくメンタル強いですよ」というので「うううん。きみはメンタルが強いのではなくメンタルが鈍感なだけだよ」と言ったことをその時たしかに思い出しました。あのね殴られて、傷つかない人なんていますか。強くなったんではなくて、鈍感になっているだけで、だからしっかり傷ついているんだとぼかぁ思うの。だからきみはがんばりすぎちゃったんじゃないかなって、ぼかぁ思うの……。やすむんだよ。やすむんだよ。人間が全力疾走出来るのって400mくらいだと思うの。それ以上全力疾走を続けたらね。生きているといろいろな人生と隣接し、それをしかし細部まで詳細につまびらかにすることはできないから、それでも人間を分かりたいと思うことは悪い事だとは思わないから、話してもらえる範囲でなんとか解釈したり、予想したり、そのうえですり合わせたり、チャンスがあったら助けたいと思ったり、穴に落ちたら助けを呼んだり、そういう風にしていいんだって思うことは何度だってあります。隠者にだってそれはあるもん。タワレコに行って、そしてタワレコにはぼくが見たこともない最新のラインナップの音楽が並んでいて、アッ! ぽっぷなうれているおんがくばかりがここにあるわけではないのだ。と、はじめてきちんと認識した。その昔、心身共に少年だったぼくは知っているものがなければつまらないと思っていた。でもしかし今現在のぼく私は、知らないものがあることがとてもとてもうれしいんだ。似たようなものばかり見てきてああこれもどこかで見たなとか、この人と似ている人をずっと前に見たなとかそういう風に思ってしまう新鮮さのなさが、また繰り返している輪廻が、既視感が、悪夢みたいな陳腐さが、どこかで見たタイムリープの夏休みが、そういうものが蝕む精神がある。だから、知らないおんがくそこにたくさん蠢いて、なにか今にも爆発しそうな感じでなにかを待っている感じがしてそういうのは久しぶりに研がれた感じがしたんだ。なにも買わなかったけれど、でもそこにそういう概念があるというだけで救われたような感じがしたんだ。全品70%オフとか、あっという間に上達するとか、上質なとか、そういう言葉を目にするたびに月の裏側とかのことを考えているんだ。まだまだ話したいことがたくさんあるんだ。でも今日はやめておくよ。明日も仕事があるからね。もちろん、ストレスの話というのはそれのことさ。日本で考え得る限り最高の自由だった三カ月は終わっていて、言わずもがなの輪廻の中にいる。