にんげんになる

 会社が暑い。私は半袖のTシャツを着たい。そして業務改善のための方策を考えたり、ストレスを感じていそうな人にくだらないギャグをお贈りしたり、社内連絡ツールで猫がキーボードを乱打してるスタンプとかを送りたい、半袖のTシャツを着た私のままで。

 働いているまま無職の気持ちでありたい。無職の気持ちとはストレスが全き無であり、不安の影も形もなく、ただ幽玄なる一日の、茫洋たる時間の海にゴムボートをひとつ浮かべ、そうしてたゆたう気持ちである。広がる感性、自由の中にあるという実感、そしていつでもどこへでも行けるという余裕、無職とはひとつの視点である。私はその視点を獲得したのだが、労働は別の視点を持っており、その渦の中にある限り労働の視点から逃れることは難しい。労働から学ぶことや得ることはあるし、生きるための基本的な消費であるけれども、労働の視点に囚われてしまうことは、おそらく人生を損なう要因となる。所属することで満たされる欲求は、所属することで憎悪に変わる。行動をするということは絶え間ない変化に身を置くということであり、無職とは、絶え間ない無に身を置くということだった。働いて過ぎる1日も、ぼうっとして過ぎる1日も、どちらも一様に素早いし、どちらがよりよいとは言えないと思うけれど、どちらにせよ一生懸命やっていればどこかには辿り着かざるを得ないから、どんなことになろうと恐れる必要があるのは、ただ自分の面白くないことを面白くないままにしてしまうことなのではないだろうか。

 今、電車に乗っていて、隣の席の酒臭いおじさんが、ひとりごとを言いながら、私の肩に頭を預け、安らかに静物となっていった。私は酒臭さを感じながら、家に帰ったら何を食べようかなと考えている。それから、何をしようかなと考えている。ふと仕事の内容が頭をよぎり、残件のチェックなどを勝手に始める脳をリブートして、ようやくにんげんになる。