ヘルメットと人間

 よくあることであるにせよ文章力の衰えを感じる。足りなさを感じる。何を書いても満足せず面白くなく意味を感じられない。何度も感じてきたけれど、感じるたびに「それがどうした」と思う。今も思っている。うまく書けないならうまく書けなくていいし、面白くなければ面白く書かなくていい。書くことってそういうことじゃないよなって思う。ぼくがいつも念頭に置いていることは自由であって、ぼくの不足感は自由を狭くしている。だからまあ、これはこれでいい。
 
 ヘルメットを買った。ジェットヘルメット。教習所ではジェットかフルフェイスしか使用してはならないと決まっている。フルフェイスの方がもちろん防御力は高いけれど視界が狭くなるらしいし、重いし、息が苦しそうだと思ったのでジェットにした。先ほど届いたので試しに被ってみるとやたら頭のでかい変な人が鏡に映っている。少し笑う。全然似合ってない。似あっているかどうかはヘルメットの本質ではないのかもしれないけれど、それでもずんぐりした頭のぼくは、それでなくとも大したみてくれではないのに、野暮ったくて筆舌に尽くしがたい滑稽さがある。そしてぼくはそんな自分がそれほど嫌いではないかもしれないと思った。どんなことにも初めてはあって、初めてのヘルメットは、初めてがことごとくそうであるに、ファニーであり、そしてほのかな期待や夢の幻視や、新しい自分の姿などをもたらす。ひとつ気がついたのだけれど、ヘルメットを被っていたら、耳がとてもかゆくなった。どうすればいいんだろう、と思う。走行中にヘルメットは脱げない。もしバイクで走っている間に耳がかゆくなったら、どうすればいいんだろう。我慢するしかないのだろうか。今まで想像さえしなかった問題が、実体験でこういう風に理解しはじめる時の面白さは、やはり実際にやってみてはじめて気がつくことなのだろう。誰も気にしないような些細な出来事が実はなにげに重要だったりして、そういうことをいつまでも覚えていられるような人間でありたいと思う。

 バイク用の上着が欲しいなと思ったので、古いスウェーデン軍のモーターサイクルジャケットを買った。剛直な固い生地のオリーブドラブの上着で、ぼくのとても好きなミリタリーデザインである。クラシックな仕様なので機能性はことごとく低いけれど、レトロでかわいいし、男らしさもある。ボタンがたくさんついていて、粗末に扱うことを前提とした、いくらでも替えの効く、まさに現場のプロダクト。着こなす自信はないけれど、ラフに扱うことが許されている服への安心感みたいなものは、気持ちを楽にしてくれる。こういう服はいいものだなと思う。今週末にバイクの教習が始まる。どうなることか、楽しみだ。
 
 友人と1時間オンライン飲み会をした。一滴も酒を飲まなかった。オンライン飲み会とはなんなのか考えさせられることではあるけれど、電話をする文化を持たないぼくとしては、ただ意味もなくだらだら会話すること自体がひとつの楽しみなのもしれないと思う。もしかしたらぼくは、ただメッセージをやりとりするばかりではなく、実際にお話をするということに対して、もっとカジュアルな気分でいてもいいのかもしれない。そろそろ寝る、と伝えで通話を切ったすぐあとに元上司から電話が来た。いつも飲みに行きましょうという内容だった。あまり話を聞かない、エゴイスティックな先輩だけれど、ものすごく人のことを考えている人だった。ありがたいことだと思う。一緒の現場を離れてなお、時々電話してくれる。話している内容は他愛ない愚痴や適当なジョークだけれど、そういうのはきっとまったく問題ではなくて、電話をかけてくれること、ただその一点のみですらぼくを支えになっているのだと実感する。
 
 明日は5時起きだ。そろそろ眠らなくてはならない。今日はほとんど何もしていないけれど、それでももしかしたらいい一日だったのかもしれないと思う。コミュニケーションをとるというのは雑談をするということでは全くないのだけれど、それでも人間とかかわることで、そのたびにぼくは少しずつ人間として自らが確立していくように思われる。完全に不完全な人間として、没交渉かつ不干渉だったぼくは、いい大人になってはじめて人間とは何かということを学び始める。人と他愛ない話をしたい。30分でいい。ぼくはそれを、きっと試してみるべきだと思う。