流れ

 生き延びるためになんでもした、という言葉がぼくは結構すきで、ぼくはそれを自分の人生に適用することが多いけれど、といって何か犯罪めいたことをしてきたわけでもないけれど、たとえば失敗なんかをした時に、あの時ああしていればとか、あの時こういう風にしていたらとか、そういう風に考えるのではなく、あの時はああするしかなかったし、そして今、結果としてぼくは生きているから失敗というほどの失敗でもなかったのかもしれないな、みたいに考えるし、そういう風に考えることを、生き延びるためになんでもした、に、含めてもいいと思っていて、しかしその上で、そういう風に思考を工夫しただけで、簡単に安易に生き易くなった気でいる自分を愚かだと考えることもあるし、だから改善すべきところは改善した方がよりよいから、よし、できることをするぞ、という風に考えることもあり、水が、満たされた器の形に姿を変えるように、ぼくも、その時の心の形に考えを変化させ、アジャストさせ、固く貫く意思ではなく、柔軟に流れていく思考を、持てたらいいなと思っているので、一貫性というものがアイデンティティとして根付かず、ダイナミックに変わり続けるということを、ぼくは続けている、生き延びるために。
 イヤホンが耳にはまっていて、しかしポケットの中にイヤホンのイレモンがない。イヤホンのイレモンは充電器になっているので、イレモンがないと充電できないので、イヤホンはただの耳栓になってしまう。ぼくはいつもポケットにイレモンを入れており、だからポケットがつっぱってでっぱって変な形になってださいなあと思いながらそれを続けてきたのではあるが、会社に着いた段階でイレモンの感触がすっきりと消えており、イヤホンを耳にしたままイレモンだけ忘れてきたのかな、と思っていたのであるが、そんなミスをしたことはイヤホンを買ってから一度もしたことがなく、つまり4年ほどそんな失敗をしたことは一度として起こらなかったわけであるが、それでも今日がそのはじめの一回になってしまったということもあり得るわけで、きっと部屋の窓際で煙草を吸った時に、洗濯機の上に置き忘れてしまったのだと思い込もうとしていたのであるが、帰宅して洗濯機の上に何も置かれていなかった時、0でも無しでもなくnullだったのを確認した時、ぼくは、ポケットから黒い小さなイレモンがすっとこぼれ落ち、電車の座席の上に音もなく転がった光景を幻視し、そうして二度とイヤホンは音楽を奏でないというわずかなさみしさを、はっきりと理解した。
 久しぶりに小説の話を人とした。思いもよらぬところに読書家というものはいるもので、それはラジオリスナーと同じくらい希少だが、UMAのように不確定のものではなく、ごく少数ながらたしかに存在していて、だからそういうものに出会った時、ぼくはひどく面食らっておどろいてしまい、足元に巨大な穴が空いたような落下感と不安感と眩暈とを感じ、そしてごくうっすらと非常に軽量で微量な仲間意識とでもいうのか、ドウビョウアイアワレムとでもいうのか、ブルータスおまえもかみたいな、おまえの正体はそういうものだったのか、みたいな、ポテトチップスの袋を開けたら底の方になぜかピーナッツが一粒はいっているみたいな、そういう気持ちになる。ぼくとその読書家は一定の距離をたもって遠くから相手にぎりぎりぶつからない位置に雪玉を投げ続けるという感じの会話をして、とにかく読書家との会話は非常にセンシティブでナイーブでむずかしい。大抵の読書家とぼくの趣味は合わないし、その読書家だって他の読書家と趣味が完全一致することなどないのだろうとは、今までの経験から鑑みるに悲観的予測なのかもしれないが、思います。読書は一人用の行動であり、だからルールというものがほとんどなく、そこには自由に解釈する自由があり、だからこそ読書は面白いのであって、だからこそ読書に対する趣味はガラパゴス化し、人格や性格を浮き彫りにしてしまうような効果があり、共有することがむずかしくなる。個人の趣味に合う読書は、個人の趣味に先鋭化し、個人の趣味に最適化されるので、つまりそれは、他者に合わない読書となる。ぼくの体に合わせて作ったオーダーメイドスーツが、他の人の体に合わないのは当然のことであり、だからぼくの趣味の読書は、他の人の趣味の読書とは完全一致することが全然まったくない。だから読書家との会話はいつも難しいのであるが、ぼくがそういう風に考えていることが、その読書家の考えと一致するかというと、これもまた疑問であり、というのも、その読書家は読書をエンタメとしてしか受け取っていない可能性があり、そうなると読書というものはエンタメとして共有し得る。エンタメが司っているのは楽しいという感情であり、そこには楽しいというルールがある。ということはつまり楽しさを共有することは可能だということになる。読書家は、ただ楽しさを共有したかったのかもしれない。外黒さんが好きな作家、いますか、と読書家は聞いた。ぼくはうーんうーんうーんとうなったあと、小林泰三秋山瑞人の名前を挙げた。読書家はふたりのことをほとんど知らなかった。それから読書家はポール・オースターが好きだと教えてくれた。ぼくはポール・オースターの本を二冊持っているが読んでいなかった。ぼくたちは仕事を終えて別れた。そしてぼくは帰宅の途中で本屋に寄り、とある本を買ったのだ。
 会社で10歳ほど年下の先輩とバイクの話ばかりしている。先輩はバイク乗りで二台もバイクを持っていて日本中を走り回って観光をしたりしているが、観光をするということが目的というよりも、どこかにたどり着くことをただ求めているようだった。あのバイクがかっこいいとか、あのバイクがださいとか、速いとか高いとか、そういうことになるとぼくもぺらぺらと話す。バイクについて毎日毎日調べているしどんどん詳しくなっていく。スマホでバイクのスペックや価格を調べていると、ある時不意に自分のくだらなさに愕然として、バイクなんてなんでもいいじゃないかと原点にすとんと墜落した。走ればなんでもいいものを、かっこいいとか重いとか速いとか、やっぱりそういう単純な部分に注目してしまっている。それはぜんぜんバイクの本質とは関係ないのになあと思う。先輩は大排気量の高価なバイクに乗ってマウントをとりたい! と笑っていた。とても単純でまっすぐで若く、そしてあほらしくていいと思った。バイク的だ。ぼくは壊れかけの原チャリでいいから、人のいない道をまどろみながら走っていたい。