風、光、震動

 レンタルバイクをした。借りたのはGB350S。空冷単気筒エンジンで348cc。実物は写真で見るよりもこもこ膨らんで大きい。仔牛のようだ。レンタカーと同じような手続きを済ませて休日の朝の10時30分に知らないガレージにひとり放り出されてぼくは不安だった。普通二輪免許をとってからはじめての公道で、頭をよぎるのは事故を起こしたり転んだりする自分ばかりだった。バイクにまたがると足つきがあまりよくない。かかとが浮いている。ぼくは短足だ。ヘルメットが重い。グローブの右手の親指のつけ根が縫製のごりごりしたところに当たって痛い。まだ手に馴染んでいない。何もかも真新しくてまぶしいからめまいがしている。キーをひねりキルスイッチと一体のスタータスイッチを押すとばばばばと低音のアイドリングが床や壁に反射して拡散する。しばらくバイク見知りをしてから、ここでもじもじしてたってしょうがねえやという気持ちになって半クラすると排気が非常に細くなりGB350Sは悲し気なため息を連続しはじめる。低中速のトルクが強いはずなのにアイドリングはそれほど強くない。アクセルをすこし入れるとけつの下でエンジンがどるるると震えて前に進んでいないのに前進する強い意思を感じる。バイクは震えている。クラッチをつなぐとどるどると重々しく進んだ。180キロの車体だ。目の前には二車線の広い道路。バイクの鼓動とぼくの鼓動。車が途切れた瞬間に頭がすーっと冷静になって公道に入る。そこからは無我夢中で必死でバイクを運転するだけになる。
「道を覚えていない」というのは運転において最も危険な行為なのだと思う。ぼくは事前にコースを決め、ある程度の道のりを記憶していたけれど2時間分の見慣れない道であっけなく迷った。バイクの運転自体はすぐに慣れた。GB350Sの排気量は普通くらいだし、低音の図太いエンジン音の割に馬力が低く、教習車だったCB400SFよりもかなり遅い。この遅さは想定通りの遅さというか、のんびりスタイルが好きなぼくにはぴったりであった。前に進む力は強いけれどスピードは出ない、という面でもやはり仔牛のようだ。
 あらゆるパターンで10回くらいエンストした。信号待ちからの発車で3回、踏切の真ん中で1回、車道から傾斜のきつい歩道に入った時に1回、コンビニの駐車場で1回、という具合にエンストだらけだった。個体差なのかアイドリングが弱いのでアクセルを割とたくさん入れておかないとすぐにエンストしてしまう。走りだしてしまえば力強く鈍重にもりもり進むけれど、走り出すときはちょっと繊細だった。奥多摩の峠の途中まで、迷いながら4時間かけて行った。峠はとにかくバイクだらけで笑ってしまった。ツーリングの連中だらけだ。やっぱりみんな山に向かうんだなあと思った。GB350Sは山道でも減速せず快適に加速したし、むしろ上り坂は得意なのではないかとさえ思われた。20馬力もあれば坂道も不安ではないなあと学んだ。
 峠ではものすごい乗り方をしている人がいた。おそらくヤンキーの人だと思うのだが、左足を横にだらんとおろしてつま先をアスファルトに擦っている。さらに左手も体の横に垂らしている。右手と右足だけでバイクに乗っている状態だった。ぼくはそういう運転をはじめて見たので衝撃を受けた。そういう格好でもバイクって運転できるんだ!? と思った。車の箱乗りというのは見たことがあるけれど、こういう感じのいきがり方もあるんだなあと学んだ。ヤンキーの人は唐突にスピードを上げてカーブの向こうに消えていった。ああいうバイク文化もあるんだなあと思った。あれも文化なのだ。よいかわるいかは別にして。八王子の辺りには暴走族そのままの改造車が未だに存在していて、普通に駐車場に停まったりしていた。
 どこをどう走ったのかもう覚えていない。ビル街から急に川沿いの道に出た。空が開ける。光、風、震動。ああこの感じは南の島の原チャリに近いな、と思った。ぼくの思うバイクはそういうもの。光、風、震動。それしかないから、ぜんぶそれになる。
 8時間みっちり乗ったのでGB350Sの運転には慣れた。返却時間がぎりぎりだったので後半は甲州街道をまっすぐ帰った。アクセルの入れ方が分かるとエンストは怖くなくなったし、それなりにびゅーんと走れるようになる。ぼくは車と同じように車列に並んで走っていたが、車の間をするすると抜けていくバイクが大半で、そういえばバイクってそういうことをするんだよなあと今更になって「すり抜け」を認識した。あれは合法なのだろうか。
 ガソリンスタンドで給油しようとしたら給油口の開け方が分からなくて店員さんにじっと見られて恥ずかしかった。それでもなんとか給油を終えると、向上した技術をフルに活用して滑るようにしてガソリンスタンドから逃走しなめらかにカーブして車道をばばばばと走り抜けた。給油の仕方もわからない癖に逃げ方だけはとてもうつくしかったのでぼくは一人で笑ってしまった。ヘルメットの中でひとりで笑ってしまってもいいのだった。バイクは笑い声よりさわがしい。
 GB350Sはいいバイクだった。またいつか乗りたいと思う。