くもの季節

 またくもの季節となった。
 くもが部屋にやってきて、うろうろしている。
 どこへでも行くがいい、と思っている。
 くもたちは案外かしこい。ぼくに踏み潰されたりしないように生きている。2,3年一緒に暮らしてみて、それがわかってきた。今年はより自由に過ごせばよい。ぼくも前より気にしなくなった。
 本の背表紙の一文字となったり、壁の画鋲みたいになったり、すればいい。
 でも客が来た時は、隠れていてくれよ。驚かすといけないからね。
 ぼくは化物と暮らしている気持ちになった。
 不快なやつでなければ、そういうものと暮らすこともできるだろう。
 すべてのくもと一緒に暮らせるわけではない。あしながぐもや、大きい巣をつくるやつはちょっと嫌だなと思う。
 でも顔見知りのくもで、そいつがどういうことをするものなのかを知っていれば、大丈夫だ。
 
 週末はレンタルバイクを予約していたけれど、台風が来たので中止になった。レンタルバイクの会社が丁寧に「雨がすごく降るけどバイクに乗るのか?」とメールを送ってくれたのだった。
 ぼくは台風の進路を逃れる道を既に調べてあった。しかし、せっかくメールを送ってきてくれたのだし、天候がどうなるかわからないのでキャンセルする旨をお伝えした。仕方ないことではあるにせよ、なんとなくつまらない気持ちになった。
 当日は思ったより晴れた。晴れたけれど何もする気が起きなかったので一日中家で寝ていた。久々に一日中家で寝るということをしたような気がした。5月はマッチポンプ的に忙しく、始終動き回っていたように思う。
 食べ物を食べ、動画を見ながら眠り、洗濯をし、近所に買い物に行く。ただそれだけの休日が安らかだった。
 ぼくは既に日課になってしまったバイクの検索もした。バイクを買おうと思っていた。買おうかどうかすごく悩んでいる。何台か見積もりをもらったり、駐車場の詳細について問い合わせをしたりしている。面倒くさいし大変だしお金もかかる。ほしいと思ったバイクは高い。あまりほしくないけどきちんと走りそうだな、と思ったバイクは安いけれどあまり好きではない。国内のバイクからインドの逆輸入車まで調べ、エンジンの型式などバイクの仕組みまで調べ始めた。面白いといえば面白いのだけれど、のめり込み過ぎてバイクについて考えること以外の生活がどんどん疎かになっている。バイクで転ぶ夢を見てベッドの上に飛び起きたこともあった。あまりよくないなと思った。
「バイクにのめりこみ過ぎているので、バイクのことを嫌いになりたいんですけど」と、ぼくは同僚に相談した。相手は、ほんのすこし変わった感性の持ち主で、何年も長髪を貫いている人だ。意見を聞いてみたいなと思った。
「わたしは“好きなものを嫌いになりたい”と思ったことがまず無いです」と言われた。
 そういうものだろうか。ハマるのが恐いから手を出さない、ということはよくあることだと思うけれど、その価値観の類として、好きすぎて辛いので少し距離をおきたいという気持ちがぼくにはあるけれど、それは一般的ではないのだろうか。
「わたしは好きなものに時間を費やして、それがたとえ失敗しても好きなことをしてうれしい気持ちや満足感が消えるわけではないので、好きなことは好きなだけやります。だから、ストッパーをかけないで好きなだけやってみてもいいんじゃないですか」
 そのようなことを言ってくれた。どちらかというと一般論だと思うけれど、相談相手の生き方がバックボーンとなって、説得力があった。そして何よりそれはわくわくさせる響きを持っていた。
「言葉に力がありますね」とぼくは言った。
 相談相手は笑っていた。
「責任はとりませんよ」と言っていた。
 ぼくの中に芽生えていた“のめり込むことに対する不安”は払拭された。
 価値観の違う人と話すのは面白いと思った。
 
 感性を否定する人がいる。
 そういう人とはうまく話せないなあと気づいた。
 具体的に書くと、
「Aのアニメを見て、ぼくはとても面白かった」とぼくが言う。
 感性を否定する人は「Aのアニメは全然面白くないですよ。作画がおかしいし、原作と全然違うんだもの」みたいなことを言う。
 よくわからなくなる。ぼくは面白かったのだ。それを、どうしてぼくではない人が否定できるんだろう。
 作画がおかしいし、原作と全然違うということは事実かもしれない。でもぼくが面白かったということを否定する材料にはならない。何しろぼくは面白かったからだ。
 だから、もし自分は面白くなかったということを正しく伝えるなら、
「俺はAのアニメは面白くなかったです。作画がおかしいし、原作と全然違うんだもの」が正しいよなあと思う。
 それならぼくは納得する。それは彼の意見だからだ。ぼくは他人の意見は基本的にすべて尊重するけれど(その結果、黙っていることも多い)、だからこそぼくの意見を意味もなく否定されたくないなと思う。
 世の中にはそういう風な否定的な言葉を意識せずに使っている人がとても多く、それを正しいコミュニケーションだと思い込んでいる人がたくさんいるなあと思う。
 相手の意見をまず聞く、それから自分の意見を表明する、というのが会話のマナーだと思うんだけれどな。
 何度も書くけれど、ブレインストーミングのルールで「相手の意見を否定しない」というのがあって、一度仲間とブレストしてみた時、そのルールをきちんと確認したのに、一言目から相手を否定する人がいた。
「おれはメイドカフェがいいと思うな」
「そんなの駄目だよ」
 という感じだ。ぼくは吹き出してしまった。なんにもわかってない、というよりもむしろ、これは思考の癖なんだと思う。マウント癖というか、否定的なコミュニケーションしかできない人というのはすごくたくさんいるものだ。そしてそういう人達は、自分がそういうしゃべりかたをしていることに気づいてさえいない。
 否定的じゃないしゃべり方をする人はぼくの全人生で今、二人くらいしかいない。
 その二人も、最初は否定的なコミュニケーションをする人だった。しかしどこかで変わった。
 ぼくも子供の頃はとても否定的な人間だった。でもどこかで変わった。
 と、思う。
 
 今日は同僚がサウナに誘ってくれたので行ってきた。
 同僚Aはサウナにはまっているらしい。同僚Bも来た。同僚Bはほとんど何にもハマらない人だ。
 同僚Aの町の小さな銭湯なのだけれど、区のサウナランキングで二位らしかった。そんなランキングがあることをはじめて知った。
 銭湯はたしかに小さかった。そして人気があるらしいことも確かで、サウナには長蛇の列ができていた。10人くらいのむくつけき日本男児がサウナの個室の前で暇そうに突っ立っている図はなかなか異様だった。こんなにもサウナブームです。
 ぼくたち三人も体を洗ったあとサウナの列に並んだ。同僚Aが事細かに説明してくれた。頭にタオルを巻くといいですよとか、けつにマットを敷きますとか、熱かったら遠慮せずに出てくださいとか、出たら水を浴びて水風呂に入ってくださいとか、喜々としている。サウナ、好きなんだね、という感じです。
 5分ほど待ってようやくサウナに入れたと思ったら、狭いサウナにぎゅうぎゅうのむくつけき日本男児が詰め込まれていて地獄絵図じゃんと思った。こんなに熱気がむんむんしている小部屋に野郎どもが詰め込まれちゃってさ! こんな思いをしてみんなサウナに入っているのか。ちょっと田舎に行けばサウナなんて広々と使えるのに。
 ぼくは入口の近くの最下段に座った。出入りが多いので室温が80℃程度だったし、ドアが開くたびに冷たい空気が入ってきて、むしろ寒かった。サウナが寒い! と思っておかしかった。
 同僚Aは10分程度でぼくに出るように促した。出て水風呂に入ると、体が全然あたたまっていないので冷たすぎて2秒であがった。寒すぎる。それからぼくは熱いお湯に入った。50℃くらいの湯だ。風呂を出た。同僚ABはサウナに再挑戦していた。ぼくは着替えて待合室でハイネケンを飲んだ。それからひとりで駅前にのこのこ歩いていき、喫煙所で煙草を吸った。
「どこにいますか?」とメッセージが来た。
「駅前の喫煙所だよ」と返信をした。
「今行きますね」とメッセージが来た。
 自由に過ごしていい仲間たちがいるのは、いいことだなと思った。