ゲームをしている

 ゲームをしている。
 250時間ほど同じゲームを続けている。3カ月弱。最初よりは上手くなった。けれどまだすぐやられてしまう。楽しいからゲームをしているけれど楽しいばかりではなく悔しさや虚しさも同様にある。どんなことをやっていたってそれはつきまとう。どれほど好きなことでも。
 一体いつまでこのゲームを続けるのか、というのが最近考えていることで、いつか終わりがくるはずだと思っている。しかしいつなのか。いつになれば辞めようと思うのか。いつまで続けていられるのか。終わりがない、クリアがないという条件は恐ろしいことだと思う。物語などは、いつか終わりがくるからこそ有難いものだと思えるようになった。終わり、クリア、何かの達成、そういうものがないからこそ苦しむことになるんじゃないかと思う。延々と同じことを繰り返す。何千回も。ゲームを続けている。ゲームを続けており、それはもうただのゲームではなくなっている。
 私は何かを確信しようともがいている。単純なこと。続けていればいつかどこかにたどり着くのだろうか、ということ。繰り返すことで出来なかったことが出来るようになるという体感。たとえばバイクの免許をとること、たとえばギターが弾けるようになること、たとえば長い文章が書けるようになること。その延長線上に今回のゲームがある。難しいことがいつか私にも出来るようにかもしれない、ということを確信すること。それが好きだ。だからゲームじゃなくてもいい。あやとりとかでもいい。でも今回はゲームだった。ということ。
 一生をかけて何か続けたいと思う。あれやこれやを試してみることはもう充分やってきたと思う。その中で私が続けてきたことは結局適当な文章を書くこと、書き続けることで、文章を書くことにかけてきた時間は250時間ではきかない。もっと膨大な時間をかけて書いてきたのに、それでもまったく全然文章が上手くならないし面白くもならないので、私は文章というものの上手さはもう才能でしかないんだと思っている。そして私には文章を書く才能がない。まったくない。最初からない。でもそういうことに絶望する時期はとっくに去りゆき、今はただ菩薩のほほえみをもって自らの文章を眺めている。比喩的な意味で。
 ゲームにはまっている最中は常々考えるのだけれども、このゲームに対する極集中や、無我の境地的なのめり込み方を、どうして文章を書くときに発揮することができないのかということ。ものすごく集中してわき目もふらず熱中し夢中し没入している感じを、文章を書くことでも感じたいのだけれどそうなったことはほとんどなく、それはたぶん使っている脳が違うからなんだろうけれど、言語化するということはすなわち冷静で理性的な自分を使っているということなんだろうけれど、ゲーム的な感覚で文章を書くことが出来たら、それは今よりもっと楽しくなるということなんだろうなと思っている。つまり自分を空っぽにしたいんだけれど、スポーツのように、ゲームのように、楽器の演奏のように、自分を感じることなく行為したいんだけれど、文章を書くということはその真逆で、自分をがっちり真正面から見つめ、自分の思考にはっきりとした言葉を与え、自分の感覚を捉えなおして成型し、というものなので結局は音楽的だったりゲーム的だったりする感覚は生涯やってこないのかもしれない。あるいはただ私が言葉の自由さを時々忘れてしまうだけかもしれない。山は飛ぶ。
 いつか今やっているゲームを辞めることになるだろう。決意してそうなるかもしれないし、なし崩し的に自然に辞めることになるかもしれない。どちらでも同じことで、いつか辞めることになるだろう。その時にはもう一度ごりごりに文章をやってみたい。と、同じことを250回くらい考えてきたし、書いてきたと思う。同じことを何度も何度も書いてきたと思う。終わりがない、クリアがないという条件は恐ろしいことだと思う。物語などは、いつか終わりがくるからこそ有難いものだと思えるようになった。終わり、クリア、何かの達成、そういうものがないからこそ苦しむことになるんじゃないかと思う。延々と同じことを繰り返す。何千回も。そしてその中で少しずつ何かをみつけていく。繰り返し繰り返し繰り返しの中ですこしずつ何かが削げていく、何かが姿を表す。あるいは削ってみても中には何もないかもしれない。ダイヤの原石かと思ったらただの綺麗な石かもしれない。でもそういうことさえもう関係がない。価値も意味もとうに溶けて消えていまここに残っているのは、私がただ求めているのは、何かを確信するためにもがくこと。