シン・生活

 新大阪行きの新幹線の中でこれを書いている。

 無職日付というものがあり、これは社会の日付とは切り離された各無職が個別に持っている日付である。無職の元旦から始まり、無職が終わる日まで無職日付は続く。

 無職2日目。予定通り3回目のワクチン接種に向かう。変異株対応のワクチンで、接種会場は我が家から歩いて30分ほどの繁華街の駅ビルの最上階の、屋上の端っこの、さらにフードコートの端っこにある目立たない特設会場だった。ぼく以外には接種を受ける方が一人しかいなかった。ぼくともうひとりのおじさんは、なんだか化け狸の運営する遊園地に並んでいる人みたいだった。非常にシステマチックではあるけれど、人の気配もないし、そこにいる人たちも人間らしくなかった。腕に注射をちくりと刺されて、待機室で20分くらい待っててくださいと言われる。パイプ椅子が並んだ待機室で、おじさんとふたりでぼうっとしている。壁際に置かれた暇つぶしのためのサービス・テレビには、何故かハワイの原住民の方の思想などが語られる番組が流れていた。空も海も青いハワイと、パイプ椅子の並んだ無機的な待機室の虚無が際立つ。熱が出るに違いないと予想してドラッグストアで一番高いバファリンを買った。大人しく帰宅して検温すると36.9℃だった。うちの体温計はいつも36.9℃くらいの数値が出るから、平熱だった。筋肉痛様の症状は接種の1時間後くらいからすぐ出始めていたが、熱は全く上がらずほとんど健康なので、体を休めるためゲームを13時間やった。身体中がばきばきになり、首、肩、腰、手首、尻、目など複数箇所に激しい痛みがあったが、13時間ゲームをするといつもそうなるので健康だった。ちょっと目を休ませようとベッドに横になった途端に意識が途絶え何も感じられなくなった。

 無職3日目。ワクチンの副作用は最短でも3日程続く。ワクチン2回目で39.6度の高熱が出てそれくらい続いたのが根拠である。かなり苦しんだ経験があるから今回も備えを万全にし、ポカリ8リットル、冷凍パスタ3個、カロリーメイトゼリー20個、フルーツグラノーラ800g、牛乳1リットル、パイの実ファミリーパックなどを用意してある。全て簡単に食べられて保存が楽で栄養価が高い食物である。無職3日目は2日目に引き続き熱もなく筋肉痛様の症状があるばかりなので、ガンエボを10時間くらいやり、vtuberを5時間くらい見てパイの実を食べ、食欲も普通にあったのでUberでマックのセットを2人分頼んで1人で全て食べた。運動は副作用を引き起こしやすいので外に出ず、脱水症状を防ぐためポカリスエットを飲みまくり、美味しいのでパイの実を食べ、ゲームをし、読書をし、体を休めることに専念した。ここで調子に乗って遊びに行ったりすると熱が出るものである。

 無職3日目。今、新大阪に着いた。お尻が痛い。

 無職4日目。0:02。友人宅でこれを書いている。友人は風呂である。見知らぬ部屋、見知らぬ町。そこに住んでいるのは人間だ。様々な人間の様々な話。ここでのお話は関西弁。

 大阪の通りは筋と呼ばれている。御堂筋。なんば、梅田、飛田新地を案内してもらった。のんばはSF感のあるビルの壁一面の広告が面白かった。梅田は女神転生の地下ダンジョンのような怪しい飲み屋が延々と続く町。飛田新地はテレビでしか見たことがないような遊郭の文化が残っていて大変勉強になった。おそらくあの文化は消滅するだろうと思う。でも、だからこそ見られて良かったと思う。あの軒先の小部屋に、ピンクの蛍光灯でライトアップされた人形のような女性と、通りかかる人達全てに声をかけるおばちゃんたちの手招きは衝撃だった。まるでフィクションのような通りだ。スマートボールを手で弾いて100円分の巨大ビー玉は全て暗闇に呑まれた。大阪こそレトロフューチャーが凝縮されている。観光ガイドには載ってない裏大阪を存分に案内して頂いて、すっかりくたびれた。

 無職なのにこんなことしてていいんだろうか、という思いと、無職だからこそやるべきだという思いと、ふたつ我にあり。

 

無職に興じる

 もはや自由人の名を恣にしたぼくは、ひとときの快楽をむさぼる化物になる。無職。

 昨日、一番面倒な最後の処理を終え、社長と対面で1時間ほど話し、無職になった。こうなると人が聞くのはまず第一に「次はどうするの」であることを経験した。次も頑張ってくださいとか、次もまた同じ職種ですかとか。いろいろな方に何回も何回も聞かれた。ぼくはこう答える。

「無職です」

 つまりみなさんにそう言って恥じることのない生き方をしてきたわけだし、そういう生き方がぼくのやりたいことであることは、もう明らかなのかもしれない。らもさんとブコウスキー山頭火が好きです。自由とは何かってずっと考えてきて答えは無数にあった。働いていても自由な人は自由だし、無職でも不自由なこともある。ぼくは今、自由を得て、そして自由を感じ、自由に振る舞うことが出来るけど、真の自由とは狂気そのものだし、狂気に陥ることがない自由などはおままごとに過ぎないけれど、それでも社会の歯車からスピンオフした番外編の時間が今は楽しい。いずれこの幸福が消費され尽くした時、どうなるかということさえ身に覚えがあるにせよ、である。長くは保つまい。ぼくはぼくにとてもやさしい。

 昨晩は退職した会社に勃興していた地下組織的なVtuber愛好家達の催した送別会に出席させて頂き、プレゼントを頂き、寄せ書きまで頂き、楽しく話し、そしてVtuberを見るなどしてオタオタしくも感動し、寂しいですとか、外黒さんロスですとかいわれ、もしかしてみんな、外黒のこと好きすぎ!? が現実のものとなった。愛され過ぎている。でも過大評価だとは思わない。外黒はキャバ嬢だと言われたあの日から、ぼくのサービスに対価が支払われているだけに感じている。そりゃぼくのこと好きになるよな、こっちは生まれた頃からずっとサービスを強いられてきた、いわば天然のサービス業なのですから。とヒロイック(もしくはヴィランチック)な気持ちもややあった。与えられた気持ちに感謝はすれど、恩には着ない。どうせ貰いものの命でした。地を這うように生きていこうと思う。というか、もし恩に着たら「命がいくつあっても足りない」が発生して無駄。誰もぼくに自害してほしいなんて思ってはいない。帰宅して横になって動画を見ているうちに身体中が霧になって何もわからなくなった。

 本日は記念すべき無職の元旦である。インディペンデンスデイと呼んでも過言とはなるまい。カモミールは相変わらず倒れ続けている。根が弱かったのかもしれないけれど、草のことは分からないことだらけだ。倒れた茎はもう戻らないのだろうか。抜いて確かめるわけにもいかないし。仕事もないのに午前7時に起きて、なおいっそう元気いっぱいの朝である。

 カーテンを開け、窓を開けた。最近の日課だった。人間はカーテンを開け、窓を開けるべきだ。

 話題のガンエボをDL後インストールして6時間ほど遊んだ。ポップなFPSが久々だったので面白さもひとしおであったが、やっている途中で既に「無駄だなあ」と感じている。FPSというものは本質的にはゴールデンアイの昔から何も変わっていなくて、だから面白いんだけれど、だからどこにも辿り着かない、何も産まないゲーム性も変わっていない。このゲームはあまりやらないようにしようと何度も思う。他にやりたいことがあるのにゲームもまあまあ面白いと思ってしまうどっちつかずさが結局のところ一番よくない。

 夕方、何週間か前に約束していた飲み会を決行することに。ここ三日間、毎日人と飲み会をしているので新鮮味は失われている。そしてこの三日間でぼくは一度も金を払っていない。ぼくは何かの天才か、あるいは何かが決定的に欠損しているのではないかと思うことがたびたびある。他人に何かを与えられすぎるということについてだ。

 やはり人と会うのは時々でいいとは思うものの、みなそれぞれ違う環境の人達だからそもそもスケジュールを合わせるのでさえ難しい中、ぼくと会って話をしようと思って頂けるだけでありがたいことだと思う。でも感謝し過ぎても気持ち悪いからあまり感謝し過ぎないようにもしたいけど感謝はしている。青山ブックセンターに行きたいと言うので渋谷駅から歩き、青山ブックセンターに着いてから「じゃあ見終わったら連絡してください」と言われ、既視感を覚え、複数人で本屋に行く時ってみんなこうなのかなとモデルケースが増える。ぼくは本屋の中を徘徊し、本を見る。1時間くらいそうしているうちに、もしかしてもう飽きてるんじゃないかと不安になる。見終わったらと言われていたのでじっくり本を見てしまった。本屋にはいようと思えばいつまでもいられるのでちょうどいい時間がぼくにはわからない。本屋の中で「日本人が書いた、日本語の、日本人離れした小説が読みたい」とメモをした。そういう小説が読みたい。半径100mの話じゃなくて、大陸レベルの話。

 そのあと東陽町ステーキ屋で、知能指数のとびきり低いでかい肉を食べた。ばかげたステーキ。ぼくの無職祝いだそうでおごってもらった。そこでひとつわかったんだけど、散歩、風呂、読書と同じくらい「ステーキ」が良い。ストレスが減る。これは牛丼でもすた丼でも焼き肉でもしゃぶしゃぶでも得られない減少値であり、やはり「ばかげたステーキ」でなければならないのだと思う。ステーキがそもそもハレの日のイメージを担っていることは大きな要素のひとつであろうし、昔おもしろいブログを書いている人がステーキを焼いて食べたという文章を書いたあの日から、ぼくの中でステーキは特別な位置を占めている。最終的に一緒に行った方が珍しく飲み過ぎてぼくが心配することになった。いつも飲み過ぎて心配されるのはこちらなので、酔っぱらいを見るのは不思議な感じがした。まっすぐ歩いてないし、電信柱にぶつかりそうになるし、意味不明なことをずっと喋り続けてるし、いつもぼくがこうなのかと思うと笑ってしまう。ひとりで帰れると豪語して聞かないので真夜中の東陽町に酔っぱらいをひとり放流した。それが願いならぼくはそうしたいと思う。助手席の人、傍観者、沈黙の地蔵、あらゆるぼくのゴーストがそう告げている。誰かの意思や願いに口を挟まないぼくは、もしかしたら神様の一部なのかもしれない。

 

 

 

 

さようなら

 またひとり抱きしめてしまった。

 ぼくはさようならが本当にむかつくほど嫌いです。だから人が死ぬ時、激怒していました。何年も続くくらいの、はげしい怒りです。死んだ人のさようならは、本当に、もう二度と会うことがないさようならでした。

 ぼくは死んだ人がかわいそうで、悲しくて、でもその人が大好きだったから、死んだ人を抱きしめたことがあって、死んだばかりの人はまだやわらかく、ほのかにあたたかかった。ぼくにとって、いちばんのさようならの挨拶は、その人を抱きしめることなのだろうと思う。死体にそうしたいと思うくらいなのだから。

 ぼくは、さようならの時、この人は抱きしめないといけないなと思ったら、抱きしめることにしています。今日、ぼくは退職をしました。職場で知り合った方と居酒屋で話して、ぼくは最後に彼を抱きしめることに成功しました。彼は、僕が両手を広げて近づくと「おう」と低い声でつぶやき、ためらった後、両手を広げて応えました。ぼくは、この時の相手のためらいが、そしてそのあとの一種のはじらいと、許容が好きです。この時の抱擁は、性別を超えた魂の触れ合いの感覚があり、つまり、生きていることの共有であり、つまり、さようならです。

 女の人にはグータッチします。性別って面倒ですね。

 ぼくに抱きしめられ慣れている人は、おう、またやるのか、みたいな顔します。そういうのもまたいいものです。大体の人は、やめろよ、なんて言いません。笑って、おう、と言います。ぼくは、そういうのが良いと思います。死んだ人は、ぼくが抱きしめても、何も言わないし、抱きしめ返したりもしません。ただ死んでいるだけです。

 ぼくはさようならの時、抱きしめたい人を抱きしめます。それはぼくにとって、1番のさようならだからです。

 

 

 

嘘つき

 ぼくはものすごく正直者で、高校生くらいからほとんど全く嘘をつかずに生きてきたので、嘘がものすごく下手だから、嘘が必要な場面で嘘がつけないという事態が発生して、困る。
 困るのは嫌なので、嘘をつく練習が必要だと思う。
 ということで、これからぼくは嘘を書く。
 ここからは嘘の話である。
 
 今日、喫煙所で同僚と話した。
 同僚は過去に不動産の営業をしていた。
 そこでぼくは試しに「ぼくは不動産の営業に向いてると思う?」と聞いてみた。
 同僚は言った。
「投資とかだと、じいさん達を騙したりすることに抵抗が無ければ向いてますよ。賃貸とかだと、嘘の比率はもうちょっと減りますけど、でも嘘をつくことは絶対必要な職業です」
「ぼくは嘘が下手だから駄目だなあ」とぼくは言った。
 嘘をつく能力って、必要らしい。
 
 なんでもいいので嘘をついてみてください、って人に頼んだら、一体人はどんな嘘をつくんだろう?
 楽しい嘘だろうか、悲しい嘘だろうか、それとも、なんにも起きないような嘘なんだろうか。
 昔、インコを飼っていた。
 ぼくが小学三年生ぐらいの頃に飼っていたインコで、太郎という名前だった。
 名前は母がつけた。母は太郎の前に適当な言葉をくっつけて呼ぶのが好きだった。
 とり太郎とか、まめ太郎とか、くそ太郎とか、そんな感じだ。
 太郎が飛んでいる時はとり太郎と呼んだし、太郎が鳥餌を食べている時はまめ太郎と呼んだし、白い鳥ふんをした時はくそ太郎と呼んだ。
 太郎は父が大好きで、いつも父にくっついていた。肩に乗ったり、頭に乗ったりした。
 父の頭の上によじのぼった太郎は、いつも遠くを見て、首をかしげていた。鳥がよくやるしぐさだ。
 父もまた太郎が大好きだった。手に餌を乗せて食べさせたり、太郎の小さな頭を指でなでたりするとき、いつもとても優しい顔をしていた。
 太郎はぼくにはなつかなかった。ぼくが太郎に触ろうとすると噛んだ。姉が触ろうとしても、おなじようにくちばしでかみついた。どうしてそうだったのかよくわからないけれど、もしかしたら太郎は、人間の子供がきらいだったのかもしれない。
 ある時、家に叔父と赤んぼがやってきた。
 父と叔父は酒を飲んでいた。そして父はかごから太郎を出した。太郎はいつものように、父にまとわりつき、平和そうにしていた。
 叔父は赤んぼに太郎を触らせようとした。叔父は小鳥というものをおとなしいものだと勘違いしていた。人間を恐れるだけの小動物に過ぎないと高をくくっていた。その思い込みはまるきり間違いだった。
 太郎は赤んぼの指にかみついた。小鳥のくちばしは鋭く、かみつく力は人が思っているよりずっと強い。赤んぼの小さな指から血が滲み、赤んぼが火がついたように泣き出した。
 叔父は笑って赤んぼをあやし、ほどなくして帰宅した。
 父は怒っていた。
 ぼくと姉は、太郎が殺されると思った。
 しかし太郎は殺されたりしなかった。
 太郎は、その日を境にぼくや姉を嚙まなくなった。
 太郎は、父に怒られて心を入れ替えたのかもしれない。
 ぼくや姉の指に乗るようになったし、ずいぶんおとなしくなった。
 父によじのぼることもなくなった。
 母はその鳥をただ、太郎とだけ呼ぶようになった。
 
 嘘の話である。
 

本日の日記

 クロネコヤマトの配達が一向に届かない。
 午前8時~12時の時間帯指定をしたので、朝7時からずっと起きていた。
 そして11時30分頃には「これは時間内に来ないな」と悟った。
 来なかった。
 今日の天気は「ほぼ晴れ」らしい。
 iphone標準搭載の天気予報アプリにはそう書いてあった。
 ほぼ晴れなんてあるんだ。それならほぼ雨とか、ほぼ雪とかもあるんだろうか。
 ほぼ夕暮れ、ほぼ夕食、ほぼ幸福、ほぼ深夜、ほぼベッド、ほぼ人生。
 まあでも、完全なものなどないのかもしれぬ。
 相変わらずひょろひょろのカモミールに水をやった。それからカーテンを開けて、2年ぶりに窓を開けた。
 窓を開けるのが恐い。虫が入ってくるかもしれないし、家の前を大きな道路が通っているから、排気ガスが部屋に入るかもしれない。窓を開けることはリスクがとても多い。
 でも今日はほぼ晴れで、休日で、早朝で、いつもより気分が上向いていたから、窓を開けることが出来た。やはり空気は排気ガスくさかったけれど、それでも部屋の空気が動いているのが感じられた。
 カーテンを開けたり、窓を開けたり、そういう簡単なことなのだよな、と思う。そういう簡単なことが出来ない状態こそが良くない状態なわけだし、そういう簡単なことをしないことによって、良くない状態を招きやすくなるんだと思う。
 知らんけど。
 amazonの購入履歴を確認すると、注文した荷物は「配達中」になっている。
 12:36頃、配達済みになった。「郵便受けに配達しました」というステータス。きっと対面じゃないので少しくらい遅れてもいいやと思ったのだろうなあと悲しくなった。一体なんのための時間帯指定なのだ。もしぼくが荷物が来るのをとても楽しみにしている少年だったらきっとがっかりしただろうなと思うと余計に悲しくなったので、その想像はやめた。ぼくは少年ではないし、荷物が来るのをとても楽しみにしていたわけでもない。ただ配達員というか、社会の馬鹿らしさに辟易しているだけだ。
 郵便受けまで降りて荷物を取ってくる。
 部屋に戻り早速紙パケを引き裂いて中身を取り出す。
 手のひらサイズの中華産USB DACで、同軸と光の入力もついている。USBのみの使用が目的で買った。音楽再生装置はなるべく安価でそこそこ使えそうなもの、というコンセプトで集めている。「省スペースでステレオでBluetoothが使えて安価な商品」が最近ではそこそこあるような気がするけれど2年前はほんとにEDIFIERのステレオパワードBluetoothスピーカーしかなくて、これもまた中華産なので音質が最悪なのではないかと不安だったけれど普通に使えているし音はまあ低音が無駄にきつすぎる以外は普通だった。音質を求めるなら普通のスピーカーとアンプを買えばいいのだから使えれば及第点である。最近ではEDIFIERの「安価なBluetoothステレオスピーカー」という戦略が認められてきたのかヨドバシでEDIFIERの売り場が出来ていて驚いた。きっとオーディオの有名ブランドからも類似の方向性を持つスピーカーが出てくるだろう。Bluetoothスピーカーがモバイル専用のモノラルスピーカーだという印象はそろそろ覆されようとしているのかもしれない。とはいえ、ぼくのような人間はBluetoothの運用にも飽きて結局はもっと音質が改善されるかもしれないという期待を込めて「ステレオパワードBluetoothスピーカーの入力にRCAケーブルを差す」という逆行をする。音質は改善されたというよりも変化した。柔らかい音になったし、不自然な低音は改善された。しかし全体的な音の解像度は下がったように感じられ、音が分離していないような、やや団子になって聴こえる印象になった。音圧自体は上がって音が前に出てくるようになった。結局は好みだと思う。Bluetoothの音もそこまで悪くはなかったから、もっといい音を目指すならそもそもスピーカーを変えるところからだと考えている。それになんといっても、大きい音を出せる環境こそが最も重要だということを忘れてはならない。音楽は基本的に大きい音で聞けばなんでも良いものに聞こえるものなのだ。それはもう実際にそうなのだ。最近の音楽がコンプレッサーを全体的にばりばり効かせてなるべく大きい音で録音するのはそういう仕組みなのだ、って何かで読んだ。昔のCDってやたら音が遠いのとか、普通にありましたよね。たしかに小さい音で音楽を聴いても細かい音は聞き取れないし、音量の小さな音楽と音量の大きい音楽とでは、大きい方が良い曲に聴こえると思う。 
 これは、大きい声の人間の意見が通りやすいのと物凄く関係があると思う。
 
 家系ラーメン、終わったかもしれないな、と思った。
 たしかに流行っていたし、最初に食べた時はおいし~と思っていたけれど、どこで食べても同じ味だし濃すぎるし、うまいけどもっとうまいラーメンあるよなと思い始めた。そこでずっと言い続けているけれど中野ブロードウェイの艶まるである。九州らーめん、と銘打ってあるように九州のらーめんなんだろうけれど、これが九州博多らーめんじゃないところがポイントで、つまり九州福岡“長浜”らーめんの要素があるのではないか? ということ。豚骨ラーメンは濃厚だ、というイメージはおそらく博多豚骨から来ているのだろうけれど、長浜の豚骨は「ほぼお湯」であって、そのものすごく淡白・淡麗な地味だけれど芯のあるうま味のスープ、めちゃくちゃ美味いお湯、って感じのラーメンがすごいいいわけじゃん。こういう豚骨がもっと食べたいなと思うようになった。九州博多系ではなく九州長浜系のさっぱりお湯豚骨である。これは家系へのカウンターラーメンとしてぼくの中で大きくなりつつある。“濃厚”の時代はもう終わったのだ。これからは“なにも起こらないけれど面白い”という時代だ。『むらさきのスカートの女』の帯にそんなことが書いてあった。“何も起こらないのに面白いとTikTokで話題沸騰!”って。ああなんてかなしい帯だろう。“あなたは三回だまされる!”系の帯と同じくらいかなしくてださい。「やった! 三回もだまされるんだ!」って思う人が本当にいるのか? 「よーし! おれは騙されないように頑張るぞ~!」って思う人が本当にいるのか? でもそういう層にも読んでもらわないと本が売れないんだなとぼくはかなしい。芸能人の誰それが絶賛だのどこそこで話題沸騰だの最後に絶対驚愕するだの何賞を受賞だの絶対涙がどうのこうの、1万回くらい見たし、そんなのはもうむなしいから見たくない。一番好きなのはシンプルに原文を引用してあって、ジャンルを表すキーワードがちょこちょこっと書いてあるやつ。派手な惹句など不要ではないか。むなしいだけではないか。無理やり下駄を履かせられているようで、かなしいよ。ラーメンの話から帯の話になっていた。何故だ。
 
 うつくしいバナナを三本、スーパーで買った。
 ほんとうにうつくしいばななを。スーパーの果物売り場で。
 
 

光沢を放つ

 ちょっとバッドなメンタルに偏り過ぎていたように思う。疲れやストレスや、いわゆる中年の危機的な心の変化や、それを全く考慮することのない外的世界との付き合いの増大や、その他色々、くたびれた精神状態におちいる原因には事欠かなかった。特に、禍によって転職せざるを得なかったこの9ヶ月は、個人的な激動であり、翻弄されっぱなしだった。いわゆるセルフケアもおざなりで、部屋も精神の状態を表しているかのようにうらぶれていった。床にAmazonの空き箱や書類が散乱している。シャワーカーテンは変な色になり、カモミールの芽は何本か倒れていた。ぼくは真っ暗な部屋のベッドに寝転がり、これは良くないなと思った。何ヶ月かぶりに、ようやくそう思えた。カーテンを開いた。見たこともないような明るい世界が広がっていた。

 トイレを掃除した。床にコロコロをかけ、クイックルワイパーをかけ、除菌ウェットティッシュをふんだんに使い、隅々まで磨く。トイレの蓋も、蓋の裏も、便座も、便座の裏も、便器も、便器の裏も磨き上げた。便器は光沢を放った。なんだかそれは自由の女神像のようだった。それは何か良きものを象徴しているようだった。

 浴槽を掃除した。かけるだけで綺麗になるという泡スプレーをまんべんなく噴射し、何分か放置した後、スポンジで磨く。泡にまみれながら浴槽の壁を擦っていると汗が滲んだ。うまく力の入らない体勢になる箇所は何度も手を動かして擦る。最後にシャワーで泡を流すと、浴槽は陶器のように滑らかに白く、落ち着いて見えた。

 シャワーカーテンは、もう2年も使っているから変な色になっても仕方なかった。お気に入りの柄で、大きな緑色の葉っぱの中に、ピンクのフラミンゴが二羽立っている。捨てるには惜しいけれど、また新しいお気に入りをみつけようと思う。何か空を飛ぶものが描かれているのがいいと思う。宇宙飛行士や、パラシュートや、かわいいコウモリの柄がいいと思う。ぼくはそういうシャワーカーテンがほしいと思う。

 カーテンを開いた窓から、部屋に光が差し込む。その光はぼくの足を照らしている。懐かしい温かさを感じている。窓からは空が見え、空は青かった。ぼくは、この時の気持ちを言語化するべきではないと感じている。ある種の物事は、形を与えた瞬間こわれてしまう。温かなベッドの上で、世界が光沢を放つ様を見ていた。

 

お前はオタクだ

 何ヶ月か前に、家に遊びに来た友人が、ぼくの部屋を見て、オタ部屋じゃん、と言ったのだけれど、この部屋のどこがオタ部屋なのか、まったくオタク要素無いじゃん。と思っていたのだけれど、今日、ちょっと機会があったのでグッズをかき集めて「祭壇」を作ってみたんだけど、マジでオタク部屋になって面白かった。

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 こういうのってやりはじめると止まらない。とても面白い。何時間でも出来る。本棚の本を並べ替えるのと同じ面白さがある。この部屋は今、非常にオタク度が高いことは認めるけれど、ぼくはオタクではないと改めて思う。まったくオタクではない。ぼくはオタクに憧れる者です。

 パソコンの延長電源ボタン(?)を買ったので取り付ける作業をした。延長電源ボタンとは何かというと、通常パソコン本体に付いている電源ボタンを、文字通り延長するもので、2メートルのコードの先にボタンが付いているという、なんというかちょっとアホな、というか原始的な発想の道具で、どういう時に使うのかというと、電源ボタンを押すのが面倒くさい時にこのボタンを押して電源をつけるという、ものぐさのためのアイテムなのであった。

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 久々にパソコンをいじるのだけども、手元が暗かったので、何か光るものがないか探したところ、会社に持って行くビジネスバッグの中にオタク棒があったので、それを照明とした。まさかオタク棒がこんな風に役立つとは。夜道も安心だし、ライブにも行けて便利だね。

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 無事に延長電源ボタンを設置することが出来た。pcの手前にある電源ボタンがそれである。一旦グラボを外さなくてはならなかったのが果てしなく怠かったし、電源ピンにケーブルを差す作業はぶきっちょのぼくにはとても難しい事であった。ていうか、ぶきっちょって言葉、ラッドウィンプスしか使ってないよな。とても面白いと思う。ぼくはぼくが作った中途半端なスペックのいかれたpcが大好き。これからもよくわからない改造をして、変なpcにしていきたい。