声はわたしに語りかける

 友人と夜な夜なゲームをしている。
 あの頃のように。
 話の流れからゲームを録画することになり私がその役目を承った。
 録画した動画を編集ソフトで加工しようと試みたけれどPCのスペックが足りなかった。
 頻繁に編集画面がフリーズするしエクスポートが完了する前に処理が停止してしまう。
 仕方ないので生のデータをyoutubeにアップして限定公開し友人にも見られるようにした。
 友人のひとりが「俺の声がキモすぎて死にたい」というようなことを言った。
 わかる。
 とてもよくわかる。
 自分の声を客観的に聴く機会は人生で何度かあって、そのたびに「俺の声がキモすぎて死にたい」と思う。
 大多数の人間は自分の声がキモすぎると思っていると思う。
 しかし変な声ではない人間の声なんてほとんどないし、変な声でなくとも変な発音とか、変なイントネーションとか、変な言葉遣いとか、変なところは無限にあるので死にたさには事欠かない。
 というか変なことが当たり前なので気にしているだけ損だ。
 気にすればするほどダメージが増加するし、しかも声は取り換えが効かないので対処するのが非常に難しい。
 配られたカードでどうにかゲームを続けていくしかない。
 私は自分の顔も長年大嫌いだったけれど、大嫌いでいるのが無駄だなと思ったので友人たちに自撮りした写真を何枚も送って笑わせているうちにだんだん顔のキモさに慣れてきて、むしろ今ではそれほど嫌いではなくなった。それは私の顔が変化したわけではなくて、私が急に映画俳優のような顔になったわけではなくて、私の心が私の顔を受け入れたということだった。私は自分の顔の画像をプリントして写真にして会社の人に配ったりもした。一瞬の笑いが私を助けている。私は私の顔と長年向き合って私の顔に慣れた。
 私は私の声のユニークな部分をもっと自分自身に見せつけようと思う。私の声はとても低く、小さく、もごもごしていて遅く、不明瞭で、会社で業務中に他部署に電話をしたら相手が「なんか食ってる?」と言ってきたことがあるくらいのものだし(何も食べていなかった)、活舌が絶望的なので頻繁に噛みまくるけれど、それでも案外この声で困ったことはない。しゃべり方で怒られたこともない。朝礼の当番になった時、あまりに私の声が小さすぎて聴いていた同僚たちが三歩くらい近づいてきたことがあってあの時は私が笑ってしまいそうになったけれど、せいぜいその程度だ。
 必要最低限の役割は果たせる声だ。まったく不都合はない。
 私は時々、本を音読する。音読している時の自分の声は結構好きだ。とてもなげやりな感じで朴訥さが限界まで前面に押し出されている。このようにして私は自分の好きな自分の声を少しずつ発掘していきたい。
 ところで声よりももっと衝撃だったのは、ゲーム中の私は全然面白いことを言わないことだった。これは声どころの問題ではない。声の使い方の方がよほど問題だ。どんなにキモい声でもいいことを話したり面白いことを話したりできればそれはそれでよくて、どんなに美しい声だってしょうもないことばかり話しているなら無駄なうつくしさではないか。
 私は自分がすごくしょうもないギャグをぽつりぽつりとつぶやいたり、敵に襲われてパニックになったりしている自分の動画を見て、死ぬほど自分がつまらない奴だと気がついた。ぜんっぜん面白くない。声もキモい。
 そして逆説的にVTUBERってすごいんだなと改めて発見した。あの人たちはすごかったんだ。何時間もゲームをしながらしゃべり続け、しかもコンプラ的にクリティカルなことを言わないように気をつけ、そこそこ面白いことを言い、その合間にコメントを読み、褒められたり貶されたりを全身に浴びながら毎日毎日配信をしている。
 まごうかたなき「仕事」だった。
 仕事でもなければあんなことできないと思った。
 

わたしは触って生きる

 渋谷駅のホームにくしゃくしゃの真っ赤なティッシュが三つ転がっていて椿の花みたいだった。あまりに鮮やかな赤だったので手に取ってたしかめたくさえあった。汚いのでやらないけど、それでもうつくしくひかりをはなつ赤色は、思わず触れたくなるものだと思う。
 わたしは比較的なんでもかんでも触ってみたい人間である。触ってみると、触ってみないことよりもはるかにたくさんのことを知ることができる。たとえば、巣鴨の町の入口には、巣鴨のマスコットキャラクターである「すがもん」のおしりがあるのだが、巨大なおしりだけが宙に浮かんでいる謎の空間があるのだが、そのおしりは案外固い。触ってみなければすがもんのおしりが固いという情報を得ることはできないので、わたしは触ってみてよかったと思う。
 ポテトチップスは触りたくないけれど、でもギンビスのアスパラガスは触りたい。そういうものもある。食パンは触りたくないけれど、チョココロネは触りたい。要するに、手に何かつきそうなものはあまり触りたくなかったりもする。
 ずっと前に一度書いたけれど、人間が一番触りたいと思うもの、あるいは触った時にしっくりくるものって「木の棒」だと思う。子供でも大人でも「いい感じの木の棒」を見るとつかみたくなる衝動がむくむくと湧いてくるものだと思う。あれは人間の本能に刻み込まれている木の棒に対する飽くなき欲求の表れだと私は思う。実際、いい木の棒というものは手に持った瞬間にとても馴染むし、なつかしさや、万能感さえ感じることがある。どうしてそうなるのかというと、人間はお猿だった頃、木の枝をつかむことが生活そのものだったからだ。人間の体の原型は、枝から枝へ移動を繰り返すための設計なのだから、人間の「手」という構造が木の棒をつかんでしっくりこないはずがない。木の棒をつかむためにあると言っても過言ではないとさえ言えなくもない。だから木の棒を見るとつい手にとってみたくなるし、いい木の棒をみつけると、ただそれだけでうれしい。ただそれだけでうれしいというシンプルな機能・感情が、わたしはとても好きなのだ。昔、お猿だった私の祖先に敬意を払いたい。木の棒をたくさん触ったり握ったりしよう。
 今一番触りたいのはつるつるに研磨した宝石で、つるつる触りたい。触ったあと、磨きたい。宝石って光がきれいに反射するようにカットして研磨するものだけれど、そのカットした破片をたくさん集めたら何トンになるんだろう。粉やかすやくずになった原石はただのゴミになるんだろうけれど、なんだかもったいない気もする。原石って見た目は結構きたないけれど、そのきたなさが私は好きで、だってそのままでも宝石なのにな、と思っている。タイタニックのラストシーンでおばあちゃんがダイヤモンドを海に投げるロマンチックなシーンがあるけれど、たぶん海の底は捨てられたたくさんのダイヤやサファイヤやルビーでとてもきらきらしている。という想像をしているわたしが一番ロマンチックな宝石のような心を持っている。このうつくしい心を投げたり拾ったりしよう。
 それから犬やモルモットや山羊に触りたいような気持ちも最近は芽生えてきた。youtubeでおすすめ動画に出てくる犬の動画を見ていたら余計に気持ちが強くなってきた。動物をなでるのは好きだ。馬や山羊の毛はものすごく固い。犬や猫の毛はやわらかい。やわらかい毛のことを和毛と書いたりするけれど、にこげという言葉は面白くてほほ笑んでしまう。日曜日出勤の同僚のひげが伸びているところを見るのも好きだし、隙があれば私はそのひげさえも触る。そのひげを触ってもいいという人のひげを触る。ひげは固い。そして生きている感じがする。犬や山羊の体があたたかく、血が通って細かく震動しているのと同じように、人間の体もあたたかく、そして細かく震動している、その共通点が、すべて動物であるという実感が、体感が、触感が、つまり触知ということだ。わたしは触る。さわるとたくさんのことがわかる。
 触ったあとは、手を洗う。
 
 

友達とゲームをすること

 小学生の頃、学校が終わるとY君の家に行った。
 Y君は住んではいけない場所に住んでいた。
 私はY君の家でミュータントタートルズのゲームをした。
 それからストリートファイター2をした。
 時々はY君の家の近くのいとこの家に行ってスターラスターをした。
 ミシシッピー川殺人事件やさんまの名探偵たけしの挑戦状もした。
 H君はPCエンジンを持っていたので妖怪道中記をした。
 くにおくんの時代劇だよ全員集合もした。
 誰かとゲームをすることで私は人間を知った。
 人間の表情や声や体の動きよりも、その人が動かすキャラクターの方が、その人自身を的確に表現しているようだった。
 少なくとも私にはそうだった。
 
 中学生の頃、放課後はA君の家に行った。
 A君は墓地の横に住んでいた。
 アーマードコアエースコンバットをした。
 アジトやテイルズオブエターニアをした。
 U君は64を持っていたので、スターフォックスをした。
 マリオパーティーをした。マリオ64もした。
 D君はゴールデンアイを持っていた。
 D君の家には毎日誰かがいて、ゴールデンアイをしていた。
 狭い部屋に7人も集まった。
 そして思わず全員が笑っていた。
 ゴールデンアイをして笑わない人はいなかった。
 
 高校生の頃、放課後はS君の家に行った。
 ナイトファイアをした。ニードフォースピードをした。
 地球防衛軍をした。徹夜でゲームをした。
 私はいつもゲームをしていた。
 ひとりでゲームをしたし、人とゲームをした。
 
 最近、古い友人たちと夜な夜なゲームをしている。私たちはアラフォーのおじさんたちだが、誇り高きテレビゲームネイティブ世代だ。
 インターネットを通して集まってはいるけれど、やっていることは高校生の頃と全く変わっていない。
 このコミュニティーの在り方は、私にとって、あるいは私たちにとって、とても自然であり、基本的な形態なのだと思うようになった。
 カウボーイビバップに、いつも一緒にいるおじいちゃんの三人組が出てくるけれど、あの形だ。
 ここに社会とのつながりがある。
 生きるためではなく、そんな切羽詰まった集団ではなく、ゆるやかでほがらかなつながりだ。
 肩肘張らず、利害関係のない、裏表のない、気安く話せる誰かが、いつもの場所にいるということは、実は得難いし、尊いし、ありがたい。
 誰しもがひとつくらいは、このようなぼんやりあたたかいコミュニティーに含まれていたのなら、せかいはもっとへいわになるんじゃないかとおもう。
 ゲームじゃなくてもいい。お茶のみ友達でも、パチンコ仲間でも、なんでもいい。居心地のいい人達に囲まれていてくれたらな、と私は思う。
 

鑑賞過激派の日記

 春風に、綿のように吹き飛ばされそうな軽い意識。

 18時に家を出た。少し湿った夜だった。映画を見に行く。
 街路にはあまり人がなく、車道には長いテールライトの列。
 街灯に照らされるココイチ。甘い匂いのミスタードーナツ
 空に浮かんでいるみたいな高架上の駅のホーム。ビルよりもずっと都市の象徴に見える。
 仕事帰りの人々に紛れて町から町へ電車を乗り継ぐ。映画館のある町へ。
 もう暑い。アウターもいらないけれど、つい世間に迎合するようにしてナイロンパーカを着たりしている。
 ネットで予約したチケットを、劇場入口の発券機から出力して最上階へ。
 座席は3,4割ほどの入り。そもそも映画を映画館で見ようという人は少なくなっているんだろう。
 netflixやAmazonPrimeVideoでいくらでも高品質な画質の最新映画が見られるのだから。
 ビデオを借りにDORAMAに通ったり、映画館に行く時代はとっくに終わったんだ。
 それでもまだ間に合う。映画館は残っているのだから。
 クリストファー・ノーラン監督『オッペンハイマー』を見た。
 アカデミー賞13部門ノミネート、7部門で受賞。すさまじい評価だったから気になっていた。
 原爆の父と呼ばれているオッペンハイマーさんのドキュメンタリーな作品。題材は明らかに地味。宇宙探検も時間逆行も無いのに、それでも作品は明確にノーラン監督のトーンだった。エンタメを期待しすぎると少し肩透かしを食らいかねないほど真面目な作品だった。良かった。
 ただ毎度のことながら、映画館の環境が問題で、真後ろに座った客がいつまでもビニール袋をがさがささせている人だったのがとても残念だった。映画館のマナーだけは過激派の私は、後ろを振り向いて客を睨んだ。おじいさんになりかけのおじさんという感じの人だった。おじさんは私の席の背もたれを10回ほど蹴ってきたし(たぶん足を組み替えた際に椅子を蹴ってしまっている)、ぼりぼりと音を立ててせんべいかかりんとうか、とにかく固いものを食べていた。ずっと音を立てているので私は後ろの席に向かって中指を立てた。すこしだけ静かになったのでよかった。自分がどれだけ見苦しいことをしているかは承知している。それでもダメなら立ち上がって直接「うるさくて迷惑なのでビニールを触るのをやめてくれませんか?」と言いに行くつもりだった。ミイラ取りがミイラになるというか、うるさい客を注意するために自らがうるさい客になってしまうジレンマを解決できないのでそれはあまりやりたくない。
 お腹が減っているなら映画館に来る前に食べてくればいいと思う。周囲に迷惑になるのが分かっているのに上映中に物を食べようと考える神経が私には理解できない。彼らにはそもそも周囲に迷惑がかかるという想像が一切できないのだと思う。気持ちが悪い。ポップコーンならあまり音がしないので許せるし、ビニールから出してパンを食べているとかなら全然いいんだけれど、ケチャップの強いにおいがするハンバーガーを食べている人とかも意味がわからない。お友達同士でお話をしている客やスマホが鳴ってしまう系の人も論外だ。こういう当たり前のルールは大概、予告編の前に短い動画となって説明される。椅子と一体化できる人だけが映画館に来てほしいと切に願う。マナーの優良な客しか入れない映画館というものがあったとしたら、チケットが500円高くてもそっちに行く。免許のようなものがあればいいと思う。マナー講座を受けた人だけが入れる映画館。そうしたら私は喜んで映画鑑賞の資格を取りに行く。治安が悪くてもいいという客と、治安がよくなければ行きたくないという客の棲み分けが必要かもしれない。
 
 町田ちまさんが歌う『ド屑』にはまっている。原曲を全く知らなくて、にじさんじアーカイブを漁っている時、不意にみつけた。とても面白い音楽だと思ったし、それ以上に歌詞が面白かった。最後まで明確な文章がほとんど出てこなくて、何が言いたいかということが明らかにならないんだけれど、それでも全てのフレーズが曲名とだけはきっちり対応している。何か伝えたいことがあるというより、伝えたいことが言語化される前の感情や思考をそのまま歌詞にしたような潔さがあった。質感や温度だけがそこにあって、だから言葉を解釈する余地さえなくトーンが伝わってくる。町田さんの歌の上手さは言わずもがなだけれど、歌唱法や透明だけど芯のある声の質も曲にぴったりでとてもいい。特に「音楽的なビブラート」と「感情的なビブラート」が複雑に絡み合っているところがすさまじいと思った。
 
 コンビニでアイスをふたつ買った。
 袋はもらわなかった。
 左手にモナ王。右手にエッセルスーパーカップ
 アイスを携えて暗い家路を歩いていると無敵だった。
 
 真夜中、友人たちとオンラインゲームをしている。
 とても楽しい。ソロプレイとは全く違う。文字通りの別ゲーだと思う。
 ひとりと、ふたりでは何もかも全く違う。食事も勉強も散歩も仕事も。
 ひとりと、ふたりでは何もかもが全く違う性質を帯びる。どちらが良いとか悪いとかではない。
 ただまったく違う。
 
 

まあいいか

「まあいいか」を練習している。
 何度やってもうまく出来ない。
 私は考えすぎる。くよくよしすぎる。
 ちいさな事でひどく疲れる。ため息ばかりついている。左のまぶたが痙攣している。
 腹の奥の筋肉が奇妙に収縮して重くなる。ストレスで髪の毛が逆立つ。
 トイレに行く。鏡に映った顔はゾンビのように頬が削げている。目がくぼんでいる。
「疲れた顔してますねぇ」とSさんが笑って言う。私も笑う。笑いながら吐き気をこらえている。
 スキューバダイビングに行った時もそうだった。インストラクターのおじさんが私の顔を見た。
「疲れてますねぇ」と言って笑っていた。私も笑う。笑いながらすこし傷ついている。
 すこし傷ついているのでそのことを忘れない。もう1年ほど前のことだけれど覚えている。
「まあいいか、って大抵のことで思いますね、私は」とOさんは言った。うらやましい、とさえ思えなかった。あまりに言葉が遠すぎて。価値観が違いすぎて。性格が噛み合わなすぎて。
 だから私はOさんが嫌いではないのだが。だから私はOさんの言葉を覚えているわけなのだが。
「まあいいか」その言葉を体が覚えたら、少しは楽に生きられるのだろうか。
 と思う。と、思わざるをえない。と思いたい。と、希望している。
 そして今もまだ、その言葉を練習してみている。まあいいか、まあいいさ、まあいいよ。
 まあいいか? まあ、いいか。まあ、いいのか。まあ、いいのかな。まあ。まあ。
 練習するたびに「まあいいか」は遠くなっていく。まあいいかは、練習するものではない気がしている。
 シャワーを浴びながらフラッシュバックを浴びている。すかさずまあいいか! 唱えると20gくらい心が軽くなる。しかしまもなく蘇った思いによって質量は補填される。
 まあいいか、が効かなかった負の実績が積みあがる。私は学習してしまう。言葉の無力さを。
 まあいいか、では何も解決しなかった。まあいいか、は効かない。まあいいかは、だめだ。
 まあいいかでは、私を救えない。
 
 まあいいかを考え過ぎてはいないか? ある時不意に気がつく。
 まあいいかという言葉は、その概念は、本質は、思考や感情の放逐。手放すこと。ワープ装置だ。
 私はまあいいかに思考・感情を放り込む。使い方は正しい。しかしその直後、私は後天的に獲得した自己観察術によって自らの思考・感情の変化をつぶさに記憶してしまう。
 まあいいかによって、自分にどの程度の変化があったかな? その観察の過程で、捨てたはずの感情を手繰り寄せてしまっている。ゼロカロリーコーラに砂糖を入れて飲んでいる。
 まあいいか、と唱えたら即、感情・思考は燃焼、成仏し、一切合切の痕跡を残さず潰える。それがまあいいかの極意なのではないか。まあいいかを心から信じること。そしてまあいいかと唱える時、その対象がいかに重要で大切で稀有なものであっても、潔く虚空へ放り込む事。こころを残さぬこと。断ち切ること。燃やし尽くすこと。振り返らぬこと。真のまあいいかとは、そのようなものなのではないか。断じて気休め程度の言葉ではない。まあいいかという言葉は、決意の表明であり、同時に自己への命令でもあり、自己催眠でさえあるのだ。まあいいかを修得するということは、究極的には悟りの境地へ至ることなのだ。この世のすべてから解き放たれること、未練を、煩悩を、雑念を、我執を捨て去ることなのだ。まあいいかは、世界と向き合うための最も初歩的な態度であり、ある意味では最終到達点でさえあるのだ。うんわかっているめちゃくちゃ考えすぎている。
 こういうことを考えているようでは、いつまで経ってもまあいいかをうまく使えない。
 
 私は恥を忍んで師・Oさんに尋ねることにした。
「Oさん、この間、まあいいかについて話しましたよね」
 Oさんは私の顔をまん丸の目でじっと見つめ、それからほほ笑んだ。
「えーと、それなんでしたっけ?」
 後光。
 まあいいかを完成させたその人は、おおらかに、私の言葉を待っていた。

 

 

 

 

今週のお題「練習していること」

脳をゆらして溢れさす

 3/4から3/24までの20日間、はてなブログトップページのおすすめ有料記事に載せてもらっていた。最低32アクセスで最高90アクセスだった。普段は10アクセスくらいなので、見てくれる人はとても増えていたが、それでも少ない方だよなあと思う。たぶん普通にお役立ち情報を書き続けていれば普段から100くらい行くんだろうなと勝手に思っている。かといってアクセスを増やしたいわけでもないのでこれからも私は書きたいことだけを書いていく。
 ちなみに紹介してもらった記事はひとつも売れなかった。笑ったし、愉快だ。
 
 久々に映画館に行った。『デデデデ』が22日に公開になったからだ。
 19時に家を出た。映画を観るために夜、家を出るのはわくわくした。映画って夜だ。昼より断然夜がいい。電車の中の安っぽい白い光や元気のない乗客の姿もいい。いずれ客はひとりもいなくなって、下りの電車には私一人だけになってまっくらな窓にぽつんと反射した輪郭のない自分。映画だった。映画館にはあまりに人がいなかった。公開から2日くらいしか経っていないのに3割ほどの入りで、だから今ここに座っている人達はみんなデデデデのファンに違いないなと思った。私はガチのファンではなくにわかだった。最終巻まで読んでもいない。でも劇場版デデデデには期待していた。期待しつつも疑っていた。劇場の照明がひっそりと暗くなり予告編が次々と映し出された時、劇場に透明な霧がかかったような感じになるでしょ。夜はその霧が濃くなる。私はサブカルクソ野郎みたいなデデデデを、サブカルクソ客と一緒に、レイトショーの劇場で見ているんだと思うと、これはどんな鑑賞よりエモかった。概ね楽しかったが一点だけ、たった一点だけ、どうしても一点だけ。デデデデを読んだ人ならどうしたって「知ってるよ!!!!!!!!!」のシーンの破壊力インパクトをご存じかと思われるけれど、あのシーンだけ、あのちゃんの芝居がすこし私の解釈と違っていてくぅ~~んとなった。あのちゃんはおんたんのキャラをまとったままかわいいかつ悲壮感の演技をしたけれど、もっとたましいの咆哮だったんじゃないかと思うの原作は。たぶんすごく細かく作品のトーンとかと合わせてああなったんだと思うけど、もっとラウドな絶叫が出来たと思うの、あのちゃんなら。その直後の三人の涙の演出も、だからなんか若干ピントがずれていてすごく惜しい感じがした。あのとき三人は感動して泣いたんじゃなくて「我慢していた涙がおんたんの絶叫で思わずこぼれた」んだ。うつくしく描く必要はなかった。きれいな音楽なんて流す必要はなかった。あのシーンは感動的なシーンだけれど、あのシーンで感動していたキャラクターはいない。普段はあほしかやらないおんたんが爆発してさらけだしたからみんなの堤防がぶっこわれただけなんだ。というところだけが気になった。他はよくできていた。とても良いアニメだった。夜だった。
 映画は夜だ。
 
『推しの子』11話を一気に見た。240分ほどだろうか。
 あなどっていた。正直、私の好きな話ではないだろうなと思っていたし、キャラで売れたんだろうな~~くらいにしか思っていなかったけれど、知人がぐいぐい推してきたので勢いで見たらとても面白かった。私は映画・アニメ・マンガ・小説などどんな媒体でも泣きながら摂取する人間ですが、推しの子では七回ほど泣いた。見終わった時、すこし痩せた気がした。ちなみにフリーレン全28話を見た時には18回くらい泣いたし、ヴァイオレットエヴァ―ガーデンは一話につき一回泣いた。ずっと痩せるターン。最近のゆうめいな作品てぇのは泣いてしまうものですね。あるいは私には涙の才能があるのか、涙腺が壊れているのか、推しの子はしかしそれほど感動するという話でもないのだよな。私は登場人物がわーっとやる気になって人間が溢れてくる感じを見るともうだめなんだ。意外性のあるシナリオや業界の裏の実態をそれとなく教えてくれる構成もなんだかお得感がありよかった。B小町は挫折や絶望を背負った人が集まっている吹き溜まりの感じもいい。エリートがエリートのまま勝ち進んでも何も面白くないものな。天才と呼ばれている人が実は天才じゃなくて血のにじむ努力をしているだけの普通の人のパターンが私は一番好きだな。努力を積み重ねることが出来ること自体がもちろん才能ではあるんだけど。とてもいいアニメだった。
 
 Vtuberにはまっている。かぐやるなのライブを観に行ってからもう随分経つけれどいまだにVtuberを見ているということは好きなんだろうな。人間のyoutuberはほとんど見ないしあまり興味はないけれど多少RPが混じっているにせよいずれ人間が丸出しになっていくVtuberというものは、私にとってタイパの悪い、とても地味な、スリップダメージみたいな徐々に効いてくる形態で、何が面白いのかというとあまり面白くはないんだけれど、ちょっとだけ面白いのがずーっと延々と毎日毎日続く、という、この続く、コンテンツが無限湧きする、というところに神っぽいところがあって、じじばばが毎日お経を唱えるのと同じように、毎日何かが起きている、私の知らないところで、私から遠く離れたところで何かが起きている、ということを自ら擦りこんでいく、みたいなところが好きだし、ちょっと言い過ぎかもしれないけれど現代の私小説なんだよな。ブログと似ているけれど、そこに人間がいて、私の知らない人間で、その人は私の見ていないところでも継続して生きている、私の認識しないところでも世界は動いている、という感覚が私は不思議で、好きだ。だからその人が面白いかどうかなんてことは些事で、というかどんな人間でも掘り下げていけば必ず面白い部分がみつかるから、私はVtuberを見て、この人のここがすごいなとか、尊敬できるなとか、あほだなとか、あほだけどきらいなあほじゃないなとか、そういうことを考えたり思考停止したりしながら、ぼんやりと13時間くらい見ている。Vtuberってすっごく変だよ。そして私も変だ。変じゃない人間はいない。生きていればそれでいいというところもある。生きている人間が好きだ、というだけのことかもしれない。好きだし、嫌いだ。そして私に嫌われたところで、他者にはなんの影響も及ぼさないということが、私は好きだ。嫌いだけど好きだし、全部好きになんかなれるわけないし、同じように全部きらいになんかなれるわけがない。きらいな時もあるし、好きな時もあります。
 ただ、それでも私は見続けています。神っぽいでしょ。
 
 
 
 

長いつぶやき

 好きなこと・ものってないんだよな。あるんだけど。
 他者と比較すると、激重な感情が発生する好きの対象って無いよな。
 あるかと言われると無い。他人に宣言できるほど好きなものは無い。あるかって言われることがまず無い。
 無いってことは無くても生きていけるってことだから、無くてもいいんだろうな。
 あるいは比較する他者が目立ち過ぎているというのか、ひときわ光を放っている人って比較対象にしやすいんだろうな。でも案外たくさんの人が、好きなものないな、って思っているんだろうと思う。なんとなく。それでいいよな、とも思うし、好きなものはあった方がいいよな、とも思う。
 依存とかどうとかではなく。というか、依存でもいいのか。依存でもいいと思う。依存してはいけない理由ってなんなんだろう。依存という言葉を悪く使い過ぎているんじゃないかな。アルコールとか薬物に依存するのが良くないのは体を壊したり精神を壊したり人間関係を壊したりするからだ、ということは分かるし、その依存は良くない。ギャンブルの依存も同様に良くないし、特定の個人に依存するのも良くない。それはもちろん分かる。やめたくてもやめられない、が依存の定義なら、すごく好き、とどう違うんだろう。たとえばサッカーが好きな少年がいたとして、学校にも行かず一日中ボールを蹴っていて、将来はサッカー選手になりたいんだ! って、言っているとして、その少年はサッカー依存症ということになるんだろうか。言葉の定義から言えば、なるんだろうな。実際、そんな少年は異常だしな。親も教師も怒るだろうし止めるだろうし。でもその依存は本当に良くない依存なのかな。あ、考えていたら分かった。依存というのは病気の一種なのか。
 病気というのは苦痛が発生したり、生活に支障をきたす症状がある心身の状態のことだから(苦痛が発生しない病気は病気ではない)、依存は風邪と同じように病気の名称なんだ。だから依存の定義は「やめたくてもやめられない」であって、根本的に依存症の人は「やめたい」と感じていることが前提なんだ。やめたい、と感じていない依存症はない、と言い換えてもいいんだ。サッカー少年がサッカーをやり続けたい! と願ってサッカーをしている場合、依存ではない。サッカーをやりたいから。サッカー少年がサッカーを「やめたいのにやめられない」と感じた時、その時にこそ依存となるわけか。やめたいという意思を実行できないことがつまり苦痛なんだ。つまり病気なんだ。依存とは病気の一種なんだ。とても大事なことだこれ。全世界に向けて発信したい。依存という言葉に勝手に怯えている場合じゃない。やりたいことがあったら思う存分やれ! やめたいと思ったらやめろ! って当たり前のことを叫ぶ当たり前おじさんになろう。依存傾向が強いという言葉も少し考えて使った方がいいよな。さもなければ「純粋な好き」を依存と勘違いして捨ててしまうかもしれない。好きな気持ちは貴重なので無駄にしないほうがいいよな。健康なサッカー少年はそのままの方がいい。
 という風に考えてみると私には依存がひとつもない。と同時にやっぱり「好き」もあんまり無いんだなと芋づる式に発見される虚無。なくても生きていけることはたしかだけれど、そのままでは何故生きているのかわからなくなるのもたしかだ。なぜ人は生きるのか、知らん。私は知らん。けどそれぞれの幸福を追及するためなんだろうなあとぼんやり考えている。幸福というのは心が満ち足りているという定義で。いつでも心が満ち足りているような状態を目指すのがつまり幸福の追及なわけで、より高強度な幸福状態になるために、より持続的な幸福状態を作り出すために、人間は生きているんだとシンプルな考えだけど。ところで幸福って言葉はすごくキモいよな。キモいけどほかに言葉を思いつかないので便宜的に使用するしかないのがすごい嫌なんだけど仕方ない。幸福でいるためには、まず幸福を認識するところから始めなくてはならず、認識できなければ言語化もできず、言語化できなければ概念化することも出来ないので再現性に乏しく、持続可能な幸福を得ることが難しくなるので、まず何はともあれ幸福の認知・認識能力を養う訓練を、たぶん誰しもが勝手に自己流で編み出していると思うんだよな。あるいは教育や環境によって幸福という状態の認知・認識は「与えられるもの」なのかもしれないな。親が「おいしいね」と言いながら笑って果物を食べさせてくれた、みたいな感じで。おいしいという味覚と、それがうれしいという感情とが上手く結びついて、結びついたことを学習して、そしておいしいものを食べるとうれしくて幸福だという感受性が思考に刻み込まれる。逆に、親が「おいしいね」と言いながら涙を流して果物を食べさせてくれたらどうだろう。たぶん果物を食べるたびに悲しい気持ちになる子供が誕生する。おいしいという味覚とかなしいという感情がセットになってしまうと、そこに幸福は生まれない。おいしいものを食べただけでは、幸福にはなれない。おいしいものとポジティブ感情が結びついてる必要がある。だから結局、何をしていても幸福だと感じられるような教育・環境を自らが自らに施す、そのような訓練が必要なわけであり、なんでもかんでも楽しいと思ってみればいいし、うれしいと思ってみればいいし、それを言葉にしてみればいいし、という結末も幾分自己啓発でキモすぎるところではあるが、幸福って言葉がだぁいすき! っていう人間にはなりたくない。

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