向き合う

 向きあうことは難しいし、体力も精神力も時間もお金も必要だから、簡単に言って大変だ。
 向きあったからといって報われるわけではないし、向きあったからといって自らが成長するとは限らないのだし、向き合ったからといって必ず自分が得をするわけではない、ということを、向き合う前に知っておいたほうがいいとは思う。
 知ったうえで、向きあわざるをえないという状況はあるし、知ったうえで、それでもなお向きあいたい、という決意だってある。そんな(ある種の悲壮な――滑稽ですらある――決意を経て)ようやく向きあう、という行動が実行されるのではないだろうか。
 にんげんは失敗から学ぶ生き物で、必要に迫られてようやく学ぶ生き物である、とわたしは思う。血で支払った学びは、単なる知識ではなく、もっとダイナミックに人間を変える。
「話を聞かないと殴られる」という経験をした人間は、好むと好まざるとにかかわらず「話を聞く」ことを学ぶ。そういう状態になって、はじめて学ぶことができる。本を読んだ程度の“知識”では、人間は変わらない。
 わたしは今日も殴られていて、ずっとそうしてきたように、何も言わずにがまんしている。
 そうして、すきなものに対しても、慣習的にがまんしていることに気がついた。
 気がついたので、すきなものとか、やりたいこととかに、もっと向きあえるんじゃないかと思った。
 わたしは死ぬし、すきなひとも死ぬし、未来も過去も無いし、でも今はきちんとここにあった。
“今だけ”という言葉は、印象がよくないけれど、よく考えてみると大切な意味を持っている。それは言葉とは裏腹に、永遠性と関係している。
 今だけ楽しければいい。
 今だけ頑張る。
 今だけを味わうことができなければ、きっと未来も味気ない。

足の皮をナイフで削る

 朝も夜もなく、時間にも気温にも左右されない、そんな生活が出来たらきっと楽で、たのしいだろうなと考えていたことがあって、また、考えることがあって、そして、それを実行することがあって、実行してみると、それは想像通りに楽で、たのしい。朝から朝まで見たい映画などを見ていると、関節が固まり首も凝ってきて、肉体が浮腫み、むやみに腹ばかり減って、死が近づいて愉快だった。この肉体的な変質はなんの状態に似ているだろうか、わたしは想像する。牢屋とか、引きこもりとか、あるいは北欧の山の麓に一人で住んでいるおじいさん、など。深夜に卵を茹で、着の身着のまま部屋を出て、近所の自動販売機でエナドリを買う。夜の空気はビロードのようにぬめぬめしている。東京の星はみえない。チョコレートアイスを食べながら、スターウォーズを見ている。十数年前にも同じようなことをしていたな、と過去が再訪して、わたしの本質に迫っている。好きなんだと思う。そんな自分を内向的だと思う。光の入らない部屋で、光を放つモニターをひとりで眺め続け、ひとりでわらったり、ないたりしていることが。この生活が続くと、肉体よりも精神が大きく変質していくことを、わたしは知っている。一日ずつ積みあがっていく慣性のエネルギーは、人生を変えてしまうくらい強くなっていることがある。いくらでも人生は分岐する。夜の休憩時間、喫煙所は工場の裏の掘っ建て小屋の中で、ろくに照明もない工場の壁際に疲れた男たちがずらりと座り込んでいた。無数のシルエットだけが夜の中に浮かび上がっていた。あれは蒸し暑い夏の愛知の山の中だった。わたしは思考Aが記憶Aや記憶Bと結合する瞬間が好きだ。生きていることと、生きていたことが思考の外でつながっている感じがする。

 足の皮をナイフで削っている。
 左足の親指の爪の横に皮が厚くなっているところがある。皮の部分は皮なので感覚はない。痛くも痒くもなかったのだけれど、ある日突然よわい疼痛がおきて、おそらく皮の層が神経を圧迫しているのだろうと思われたので、削って薄くしている。かつおぶしを削るように、固い皮を少しずつ削っていく。皮の表面を削ると、内部は透明で琥珀のような質感の組織に変わる。この透明な組織の中に凝固した血が混ざっていることもあり興味深い。皮の中に閉じ込められた血液は化石だった。はじめはおそるおそる削っていたけれど、まったく痛くないので今は彫刻を削るようにしてごりごり削っている。人間の体って不思議だなあと思う。肌の表面を一ミリか二ミリ切るだけで痛みを感じるのに、切っても痛くない部分もある。髪の毛や爪や、皮が厚くなっている部分は痛くない。はじめからそういう風に設計されているみたいに感じてしまう。どこからがわたしで、どこからがわたし以外なのだろう。わたしから生えている爪はわたしの一部だけれど、切った爪はもうわたしではないのだろうか?

 二日間、夢現のまま物を食べ、映像作品を見て、誰とも会話せずにベッドの上に転がっていた。これが幸福の一種であることには自覚的だった。洗濯をして風呂に入り、3時間の散歩に出かける。ヨドバシカメラにぶらっと入ってぶらっと出てくる。テレビを買おうかなと考えた。それから今にも朽ち果てそうな昭和のラーメン屋をみつけてしまい、さんざん迷った挙句に入店した。年季の入った油じみた店内は壁中のメニュー、赤い皮のスツール、厨房には調理白衣のおじいちゃんと、見るからに懐かしい。いまどきラーメンが400円というのもすごい。出てきたラーメンはフライ麺に化学調味料のスープに肉の少ないスタミナラーメンで、これもまたなつかしい。これからこういうラーメンはどんどん絶滅していく。二度と食べられない味になっていくだろう。昭和のラーメンは、現代のラーメンと比べるとおいしいとは言えない。でもわたしは好きだ。誰にもおすすめできないけれど、わたしはそういう店が好きだ。子供の頃からラーメンが好きだった。わたしの故郷は醤油ラーメンが有名で、どこの店でもものすごくしょっぱい煮干し醤油味だった。「食べられないくらいしょっぱい食べ物」が何故か一般的で、いとこの家で出された焼き魚(カレイ)がしょっぱすぎてちょっとずつしか食べられなかったことを今も思い出す。それもまた、なつかしい。

 

文章と仕事とホラー音楽

 文章を書こう、と思って身構えているうちに疲れ、気が付けばyoutubeなどを眺めており、youtubeにもくたびれるとベッドに横になり、横になっているうちに秒で寝るみたいなことが増え、浅い睡眠の後に目覚めても脳がはっきりしないので曖昧な意識のままぼうっとして気が付くとモニタも照明もつけっぱなしでまた寝ていて、結局なんにも文章が進んでいない、冒頭の「今日は」で終わっている白紙が夏休みの宿題めいているということになりがちな昨今のわたしの体力・精神力事情を体現したような日が今日で、今、仕事に行く前になって意識がようやくパきパきになってきたのでこうして書いておるわけだが、書き始めてからここまで、まだ一行も内容のある話を書いていないところが、まさにわたしの技術であると胸を張って書いておこうと思うている。胸を張るような内容ではないにせよ、胸を張らないよりはいいのではないかと浅ましい。浅ましくいきてゆこうとおもふ。
 特に書いておきたいこともないような5月17日だった。会社の先輩と楽しく話をして会社の後輩と楽しく話をして仕事は適度に控えそうして三人で帰宅電車に乗るなど男子校の1ページのような職場となったことは面白かったし、ある意味で特別だった。仕事はいつもかならず苦しくつらいということはない。楽しく適当であることもあるというサンプルであるし、仕事が楽しく適当であることは「よいこと」なのだとわたしは考えている。むしろ「苦しくつらい」を求めているっぽい人がいるならばわたしはそれを遠ざけたく思う。楽しく働ける方がいいに決まっている。
 帰宅してからホラー音楽を聴いた。時々無性に怖い音楽が聴きたくなる。そのたびにyoutubeでホラー映画やホラーゲームのBGMを探して聴き漁っている。わたしは普段、ホラー映画を見ない。怖いからだ。怖いじゃないか。ひとりでホラー映画を見られる人を尊敬している。わたしは怖い映画のCMがテレビで流れるだけで眠れなくなるし風呂に入るときもびくびくしてしまう。ホラーゲームも怖いのでやらない。でもホラーな音楽は大好きで、というよりもホラー作品のために作られた音楽が持っている美しさや純粋さや悲しさや切なさが好きなのだ。というわけで部屋の中に怖い音楽が満ち反響し、いつ殺人事件がおきてもおかしくないような、悪霊に憑りつかれてもおかしくないような場が構築され、そして何も起きない。わたしは音楽を停止し、眠り、目覚め、仕事の前に短い文章を書いている。天気は晴れ。どこかで威勢のよい赤ん坊の泣き声が聞こえる昼下がり。わたしは意味もなくマンションの廊下に飛び出し、階下の大通りを列をなして走り抜ける自動車を見て轟音を聴いて、明るい! と思った。

非日記

 日記以外の文章に対する負荷がある。どういう心の動きなのかは不明だけれど、おそらく創作文芸に対するおそれがあって実行が難しい。日記的文章を書き続けているとやがて日記の日記的根幹にかかる要素が自分の中で予測可能な型になっていることに気づき息苦しくなる。穴を掘って穴を埋める。穴を掘って穴を埋める。その連続した繰り返しの作業が、作業自体の負荷とは関係なく重力を増加させる。よい日記を書こうと思えばよい人生を送る他ないのだけれど、常によい人生を送ることは難しい。人生の価値は時と場とホルモンバランスと経験によって変化することは経験済みとはいえ、息をするだけで疲れてしまい、それなら息を止めればいいと気づいてそっと息を止めてみたら酸欠になって人生はより辛いものとなった、その小発見は示唆的でもある。生きている限り疲労はやってくるが、疲労を避け続けるのも苦痛に繋がる。であるからして、わたしが生きなくてもよい文書を書きたいと願った時、可能性として創作文芸は常に念頭にある。人生を生きなくても創作文芸は可能である、という前提自体が魅力的だし救済的だし、東京の夜景の無尽蔵の生きるためのぴかぴかとかを見たら、それは創作文芸的でもあると思うことができてしまう。

 自分を気持ち良くしておくことを気休めといって、気休めほど人間を助けるものもないのではないか、ってストーリーを点滴で静脈に流しながらなんとか生きている。わたしは助けられてきた、ものがたりに。自覚をして、そして自分の創作文芸が誰かを助けるかもしれないというロマンチックな想像をしていると頭の中が鳩でいっぱいになった。ここではないどこか、わたしではない誰かの話をフィクションです、といって提出したい。聖書みたいに教えがなくても、学ぶ意欲のある人はどんなものからでも学ぶし、文字が並んでいればそれで充分なこともある、可燃物放置厳禁。アメリカの文豪は三語で小説を書いた。それが自身の最高傑作だと言ったそうだ。いつかそういうの、書いてみたいなあと思ってしまう。ここではないどこか、わたしではないだれか、日記ではないなにか。

スリップ

 さっきまで暗い夜道を歩いていたのだけれど、目の前を白い狐みたいなにゅるにゅるした獣が横切った瞬間、自宅のベッドの上で目を覚ました。パソコンのモニタにはニュースが流れており、未知の元素が貝の化石から採取されたとのことだった。わたしは整理しようとした。それからまた寝た。

よい一日

 よい一日だった。よい一日の要件とは?
 わからない。再現性があればもっといいのに、とも思う。さいころを振り続けよと神は言う。「今はまだ。」
 天気はうっすらと曇り空。気温は26度。隅田川沿いの道を歩く。紫外線でじりじりと肌が焼ける。風はまだ少しだけ冷たさを保っていた。しかし熱風へ変わる萌芽を感じる。
 隅田川は青黒い流れ。遠くのビル・マンション群が天を衝く遺跡めいていた。神の怒りに触れたあの塔みたいにグロテスクなほどに巨大な、人間が作り出した集合住宅。神々の住まう町だと言われても1000年後なら納得するかもしれない。投石と棍棒で戦う第三次のあとの話。
 シュナウザーを連れたおじさんがのんびり歩いている風も巻いている。女性二人が並んで笑い声が鈴のように転がった。ギターの練習をする青年に潮風が吹いた。ロンパースの赤ん坊が驚くべき速度でくさはらを駆ける。歩道に錆びた青い星が落ちていてそれを拾って手すりに置いた。のどかで平和で豊かで時間は永遠性を帯びて間延びし不安なんてこの世界にはないようだった。
 鳩を蹴散らすおじさんが鳩を蹴散らしていた。世の中には鳩に餌を与える人間もいれば鳩を蹴り飛ばそうとする人間もいる。鳩蹴散らしおじさんはあの町では時空の歪みのような役割を果たしていた。特異点のようなものだった。
 よい一日だった。
 ずっと前からずっと建設途中のマンションや、枯草の吹き荒れる建物と建物の隙間や、ひと気のなくなった町は静かでうつくしく滅んでいくようだった。無数の人間が住んでいるはずの灰色のマンションには洗濯物が乱雑に干してあるけれど人間の気配はしない。太陽の光の当たらない湿った路地裏は異国のように寂しげで息を止めていた。
 とても暑かったのでそれほど快適だったわけでもないのによい一日だったのはなぜだろう。焼き肉を食べ、喫茶店でミルクティーを飲み、それから町の中を歩き回った、ただそれだけのことが心地よく感じられたのは一体なぜだろう。おそらくひとつでも違う要素が入り込めば結果は違うものになるのだと思う。それとも、わたしの幸福に通底する要素が今日の中に潜んでいたのだろうか? それをはっきりさせることが重要なのかもしれないけれど、きっとそれには再現性がないのだろうとも思う。
 今日という一日は二度とやってこない。
 でも、よい一日だった。

真夜中のポテトチップス

 雨、休日。となると今日は紅茶の美味い日だ。分かっているものの、億劫で感覚を実用しなかった。
 こんな日はくもも顔を見せない。くもは誰の目にもつかない場所で眠っている。壁と箪笥の隙間や、何年も履いていない靴のかかとのところや、おばあちゃんが大切にしていた薬箱のかげのところで。
 窓の外、しぶきの音が近づいてきて遠ざかる。音の感触は視覚と結びついてグレー。甘いバターみたいな匂い。
 目がしょもしょもする。シャワーを浴びてわずかに読書を進めた。それから賞味期限の近くなった生たまごをすべてゆでた。銀色のなべの中でたまごがぶつかりあってこつんこつんと奇妙な音をたてている。ものすごく小さな洞窟の中を革靴のビジネスマンが歩いている。
 塩をかけ2つ食べ、残りの3つは冷蔵庫に入れた。
 あとで食べるための玉子。

 昨晩のうちにチケット予約しておいた『シン・ウルトラマン』を観に行く。公開日に映画に行くのは久しぶりだった。カレンダーにマークしておくくらいには期待していた。休日なので首の伸びたTシャツの上に適当なウインドブレーカーを羽織ってだるだるのジーンズを履いてポケットに財布を突っ込んでビニール傘を持ってこんなに気の抜けた格好もないと思いながら映画館へ向かう自由。その気楽さも含めてわたしは映画館が好きだ。電車で10分ほど行くと映画館のある街に着く。濡れた灰色の町にはカラフルな服を着た人間たちが群がっていた。『シン・ウルトラマン』を見た。面白かった。

 映画から抜けきっていない頭のままヨドバシカメラに入ると強い眩暈がして倒れそうになる。もともと眩暈様の症状を感じるタイプだけれど加齢とともに脳内の不安定感が強くなっていくように思う。強い光にも弱いし情報量の過多にも弱い。カモノハシの模型がかわいかったので、お土産に買おうかとても悩んだけれど、他にもチーターの仔や、小さい獰猛な恐竜など色々なかわいいものがおり決めきれず退散した。

 中規模のブックオフに入った。マンガのすべてにビニールがかかっていて驚いた。いつからブックオフは立ち読み禁止になったのだろう? いつもものすごく暇そうな人たちが全力でリソースを消費して立ち読みしている空間が割と好きだったのに、あの光景を見ることももうないということか。古本なのにビニールというのも違和感だけれど、がらんとした棚と棚の隙間の道は奇妙にすっきりして、犬のいなくなった犬小屋みたいだった。

 大規模なジュンク堂に入った。本屋というものはいつも恍惚と絶望とふたつ我に与えてくれる。読みたい本と読み切れない本と。積読書がまだまだたっぷり残っているのに本を買ってしまった。後悔は特にないけれど消費することは非常に難しい。映画もみたいしアニメもみたいし文章も書きたいしゲームもしたいし時間だけが全く足りない。仕事を辞めて半年くらいみっちり消費活動だけしていたい。疲れているし記憶力も衰えてきた。息が苦しい。

 帰宅して洗濯をした。それから本棚にタブレットを埋め込んだ。大きいテレビとモニタを比較した。Vtuberを見た。それから文章を書き始め、まだ書き終わっていない。読書をわずかにした。眩暈について調べた。真夜中になってスーパーに買い物にでかけた。そこでわたしはポテトチップスを買った。まよなかのポテトチップス。眠ることと食べることについて考えた。まだ雨は降りやまない。くもたちも姿を見せない。