なにかが変わってしまったこと

 なつかしいこと。
 子供の頃、私は居間で走り回ったり、ダイニングテーブルの下に隠れたり、あるいはテーブルの上で踊ったりしていた。
 小学校3年生くらいになって、家に誰もいない時、いつものように踊ろうと思い、テーブルの上に上がってみると、テーブルが軋んだ。壊れそうだった。昔はいくら踊ってもびくともしなかったテーブルが、なぜかとてもちいさくなり、もろくなっていた。不安になって、踊るのはやめた。
 足の長いダイニングテーブルの下に潜ると、とても狭かった。
 家の横の2mほどある壁から飛び降りる遊びも、なぜか昔よりずっと高く感じて、こわかった。昔は簡単に飛び降りていたのに。
 なにかが変わってしまった。自覚したその瞬間、身の回りの世界がぎゅっと縮まって、息がつまるほど窮屈になった。
 私は踊るのをやめたし、父の背中をよじのぼるのもやめた。
 もう元に戻ることは出来ないのだと分かっていた。
 あの頃から、ずっとさみしい。
 
 

 

今週のお題「懐かしいもの」

尊敬する人

 ミニトマトを食べた。私が原始人で山の中でミニトマトをみつけたら、こんなにおいしいものは他にないと思うに違いない。野性味溢れる味がした。
 たまごかけご飯を食べた。何年ぶりだろうか。たまごかけご飯は味も見た目もぼんやりしていて焦点を合わせることが出来ない。全体的にぼわわんとしている。
 何年か一緒に働いた同僚が6月末で辞めるらしかった。ほかに人がいない時にそっと隣に座って話してくれた。いつもあほな話をしてくれる明るい人だったから、私は寂しくなった。1年ちょっとで4人目の退場だった。もう出会いと別れを繰り返したくないと思った。すっかりくたびれた。
 渋谷駅に吐しゃ物にまみれたにいちゃんが座り込んでいた。自らが吐いたものの中心にいた。さすがの私でもあれほど前後不覚になって、全身汚れるなんてことはない。にいちゃんは別次元の生物のようになっていた。数多くの通行人が彼を見て笑い、話しの種にしていた。けれどそんなことはにいちゃんにはすこしも関係がないようだった。
 ゲームをした。今日は基礎練習をしてからゲームをしたので、まあまあ戦うことが出来た。始めたころに比べれば私はたしかに上達していた。それと同時に感情を失いつつある。当然の成り行きかもしれないけれど、やられるかもしれないという恐怖や不安は薄れ、ゆったりした倦怠感がすこしずつ顔を出している。もう200時間以上、このゲームをやっているんだから。この慣れが、結局は私を冷静にしているのだし、勝ちに導いている。上手くなればなるほど気持ちは薄れていくのだろう。そして気持ちが薄れようが負け続けようが飽きようが、それでも続けている一部の人たちがモンスターみたいに強くなる。それはそれで明らかな才能なのだと分かっている。
 ホロライブのハードコアマイクラをしばらく見ていて、先日終結したけれど、カエラ神の日誌の最後のメッセージに感動した。
“今回ばかりは、私は一人ではないとわかった。”
 カエラは詩人だ、というコメントが割と多く、私も最初はそのように思ったけれど、最終的にはこの文章の良さは自由律俳句的だと思った。カエラインドネシア勢なので、こういう文章が最後にぽんと出て来たことにひどく驚いたけれど、何度かその場面を見直しているうちに、おそらくdeeplを通した文章だということがわかってきた。だからこその良さというか、日本語として意味は通るけれど、すごくスムーズな日本語という風には感じられない、微妙なひっかかりがあり、味わい深い。一文の中にたくさんの情報が詰まっていて、そこに感情があり、時間の流れさえはっきりと読み取れる。私はあまりカエラのことは知らないけれど、彼女はとにかくマイクラをやりまくっているということだけは知っていた。すこし調べてみると、ソロで資源とかをずっと集めまくっていた。半年の時間をかけてずっと一人で資源を集めていた。誰もやらなくなったゲームを続けていた。私が尊敬するのはこういう人だ。

生きた飯

 今日は風呂に2時間30分入った。お湯が水になった。
 風呂に入りながらyoutubeを見ていた。
 なんだかよくわからないけれど最近、渋い町中華などの飲食店のドキュメンタリーみたいな動画がおすすめに挙がっていて、なんとなく見てみたら非常に面白く、はまる。
 どのお店のご飯もおいしそうで、普段あまり「おいしそう」という感情が生まれない私は、その欲求をよいもののように感じている。おいしそうという目標に向かって心が動き出す感じがうれしい。
 今日は西成にある元ヤクザ屋さんのうどん屋さんの動画を見た。
 このお店は、食べ物に困っている人に無料でかけうどんを提供する活動をしていた。
 だから当然、困っている人が動画にも取り上げられる。
 彼・彼女たちは食べ物に困っている。食べられない。一日一食の粗食などを食べている。
 私は安直に自分の食生活を振り返り、自分がどれほど暴飲暴食の限りを尽くしてきたか、にわかに恥じ入る。
 ウーバーイーツで2000円近くも払ってビッグマックセットとかを食べている。しかもそれを当然のごとく何のよろこびも感謝もなくただ空腹を埋めるためだけに消費している。
 死んだ飯だ。
 死んだ飯だ、と書きながらふふふと笑っている。
 死んだ飯ってなんですの。
 
 生きた飯を食べたことがある。
 南の島に一人で旅行に行った時のことだ。
 空港でぼろぼろの原付バイクをレンタルして、それで狭い島の中を一日中ぐるぐる回った。
 はじめてきちんとバイクに乗った。
 だからすごく楽しかった。バイクに乗っているとずっとずっとただただたのしい。
 昼頃にコテージにチェックインして、それから日が暮れるまで走り回った。
 ご飯を食べるのも忘れていた。ずっしり疲れていた。
 夜になってから「何か食べなくてはならない」と思った。空腹だった。スマホで食堂を検索したけれど、南の島には夜でも営業している食堂なんて全然なかった。
 あったのかもしれないけれど、せっかくなら南の島らしいところで食べたいと思い、食堂を探して走り回った。けどなかった。無い。ここは東京ではない、南の島なのだ。コンビニもない。このあたたかで静謐な暗闇が南の島なんだ。私はこの空腹を抱えて眠ろう、と決意した時、暗闇の中にうっすらと灯りのついた商店が姿を表した。店というか「人の家の玄関に棚を置いて店にしました」みたいな感じの田舎の商店だ。とてもかっこいい。ジュースが入っている冷蔵庫の下の方に何故かマグロの刺身が並んでいた。めちゃくちゃかわいい。なぜ刺身をジュース冷蔵庫に入れたのか。すごくいい。私は刺身を買ってコテージに帰った。
 そして玄関を開けてすぐの床に座り込み、パックを開けて刺身を手でつかんで食らいついた。むしりむしりと魚の肉を食いちぎった。血と肉の味がした。醤油もなかったし、箸もなかったし、米もなかった。そんなのはどうでもよかった。私は魚の生肉を口に詰め込んでかみ砕いて飲み込んだ。何よりもうまかった。一日中バイクを運転していた疲労や空腹やはじめての経験のせいで何も考える余裕がなかった。私はすこし泣きながら無心で刺身をつかんで食っていた。
 生きた飯だ。
 今思い出すと、目の焦点があってない私が玄関に座り込んで刺身を食べている光景はとても面白いので笑ってしまうけれども。
 
 風呂に入りながら、明日は何を食べようかなと考えていた。
 トマトみたいなものがいいかもしれない。
 食べるための技術がいらないものがいい。
 私はその姿を容易に想像することができる。
 勇気が出る。
 
 
 

どこにもいない

 スクリーンに羽ありみたいな大きいのがいる。
 いた。ゲームをやっている時にみつけた。モニターの奥にスクリーンがあり、そこにぶつかっていた。何度かぶつかっていた。私はゲームをやっていた。いつものゲームだ。今日は少し調子が悪い。調子が悪いのは基本的な練習をしていないからだ。練習をしないままゲームをするとあまり調子がよくない。敵に弾が当たらない。敵はするする動く。すぅーんと動き回っている。私の動きはとても遅い。このゲームにあまり慣れていない。このゲームを始める年齢がすこし遅かったのかもしれない、というのは言い訳かもしれない。高齢者もこのゲームをしている。私に足りないのは単純に練習であり、経験だと思う。大体のものごとがそうだ。単純に練習であり、単純に経験だ。どうしたらゲームが上手くなるかな、と考える時、ゲームをすれば上手くなる、と思う。ゲームを続ければ必ずゲームが上手くなる。続ければ続けるほど上手くなる。一日に10分ギターを練習すれば上手くなる。けれど一日8時間練習すれば8時間分上手くなる。とても当然のことだ。1時間勉強すれば1時間分頭がよくなる。頭がよくなる? かどうかはよくわからないかもしれない。知識は増えるだろう。しかし頭がよくなるかどうかはなんとも言えない。まず頭がいいを定義しなくてはいけない。頭がいいってどういう人のことだろう。わからない。頭がいい人はたしかに私の人生にも何人か登場したと思う。けれどやはり彼および彼女達は時と場合によって頭がいい場面があるというだけのことで常在頭がいいという感じではなかったように思う。折尾さんは泣いていた気がする。よく泣かされていた気がする。でも笑っていたような気もする。よく笑っている人はあまり頭がよさそうには見えない。けれど折尾さんは頭がよかった。というか勉強が出来た。学年で一番頭がよかった。というか学年で一番勉強が出来た。いつも人の良さそうな笑顔を浮かべていた。眼鏡でおかっぱで鼻声だった。鼻炎だったのかもしれない。学年で唯一読書をするのが好きな人だった。というか読書をする人だということが判明している人だった。その頃、つまり私が中学生の頃、本を読むのが好きだという人はひとりもいなかった。と思う。折尾さんだけだった。私はほとんど読書をしたことがなかったけれど、読んだ本の中に好きな本は何冊かあった。山月記とか山椒魚とかだった。ああいう文学というのはとても変な話が多いと思った。山椒魚とかすごく変だ。意味がわからない。意味がわからなすぎて好きだと思った。それは今、つまり2024年の私も大体同じように思っている。というか本質的にはちょっと意味がわからないな、と思いながら読んでいることがあって、でももし完全に最初から最後まで理解することができる物語だったらあんまり好きになれなかったかもしれない。そこに未知の手触りや、生活していて感じたことのない奇妙さがあるから好きなかもしれなかった。あるいはその奇妙さは人生のどこかで感じたことがあるかもしれないけれど言語化することなく心の奥底にしまわれていた感情なのかもしれない。羽ありは姿を消したままで、しかし部屋のどこかには必ずいるはずだ。窓もドアも閉め切られている。逃げることは出来ない。必ず探し出し、殺す。俺は羽ありを探し出し、必ず殺す。二枚のティッシュでお前を包み殺す。圧殺する。それを私はする。私はそれをほとんど無感情に行為することが可能だ。しかし私は命について考えながら羽ありを殺すべきなのかもしれない。それは命なのだ。私とって羽ありは不快害虫かもしれないが、羽ありはただ生きているだけだ。私はただ生きているだけの羽ありを殺していいのだろうか。良くない気持ちになってきた。書きながらきちんと考えてみると羽ありを殺す気が引けてきた。可哀そう? 可哀そうなんかではなかった。ただフェアじゃない。対等に接していない。私が羽ありを殺そうとしたら、羽ありも私を殺そうとするがいい。そうでなければ気持ちよく殺すことができない。羽あり一匹分の引け目を感じてこのさきを生きなくてはならなくなる。これは私に根付いている騎士道精神だ。憐れみではない。相手が蚊だったら全力で殺すことに注力することできる。蚊は私を苦しめる。蚊は生きるために私を害する。私は蚊に刺されたくない。だから私は蚊を徹底的に虐殺できる。しかし羽ありはただ生きているだけで、羽ありは私を害さない。頭の良さというのは話し方のことかもしれない。知的な話し方というのはある。けれど知的な話し方が気持ちいい話し方と一致するかというとそんなことは全然ない。というか基本的には馬鹿っぽい話し方の方が面白く気持ちがいい。馬鹿っぽく知的な話をするのがたぶん一番聞きやすいから憲法を口語訳したりするのでしょう。折尾さんはよく冗談を言っていたような気がする。いつも笑っていたような気がする。そしていじめっ子の春洋によくいじめられていたような気がする。春洋と折尾さんはほとんど隣同士という距離に住んでいて、だからそれはいじめるとかそういうことではなかったのかもしれない。春洋はただ人との接し方がまったくわからなかったのもしれない。春洋はその頃、中学校で煙草を吸って停学になったり、進路相談の時に東京に行ってミュージシャンになると言ったりして学校では問題になっていた。今になってみれば慎ましやかと言ってしまってもまったく過言ではないようなどこにでもある、どこにでもいるちょっぴり問題児だった春洋は、今なにをやっているんだろう。そしてあの頃一番頭がよくて眼鏡でおかっぱでピンクのジャージを着ていた折尾さんは、今どこで何をやっているんだろう。折尾さんは親切で誰にでもフレンドリーに接し、人を笑わせたり、クラス委員になったり、そして時々はクラスでひとり読書をしていたりした。折尾さんの家は宗教の家だった。その頃、それは誰でも知っていることだった。時々思う、それがどれだけ折尾さんの性格に影響を与えたのだろう? そういう風に考えるのは失礼かもしれないと思い、私はいつまでも真実にたどり着かない。私はいつだったか、折尾さんと本の貸し借りをしたことがある。何を借りたのかは全く覚えていない。ミステリだったような気がする。私はお返しに中島らもの『超老伝』を貸したことははっきりと覚えている。超老伝ははちゃめちゃに面白い小説で、社会勉強にもなるし、ギャグのセンスも非常にキレているし、今も私のすごく好きな小説なんだけれど、女子中学生が読む小説ではない。決してない。決してないけれど、それはうっすら分かってはいたんだけれど、それでも私はもしかしたら、あるいは、本を読むのが好きな折尾さんならこの小説の面白さを理解できるのではないかと期待したのだった。折尾さんは本を返してくれる時、おもしろかったよ、といって笑っていた。そしてすぐにするすると机の隙間を縫って教室を出て行った。すぅーんと動き回っている。動き回っている。おそらく暗闇に潜んでいる羽ありも。私を銃撃する敵も。あるいは国の北でタクシーを運転している春洋も、すぅーんと動き回っている。時にすばやく、滑らかに。時にはぎくしゃくと奇妙に。われわれは動き回っている。頭のよさそうな動き方というのももちろんある。しかし頭の良さというものは身体性とはあまり関係ないものかもしれない。頭がいいというのは機転が利いたり、咄嗟の判断が素早かったり、知識を有効に活用することが出来たり、問題解決のために建設的な意見を言うことが出来たり、未知の発想を持っていたり、することだろう。そしてそのような人間は、常にそのような人間であるわけではなく、頭がいい側面を見せた後、すごく平凡なミスをしたりもして、だから完全に頭のいい人間というものはなく、それが当たり前であり、当意即妙なだけで、頭がいいという言葉の要件は満たしているとしてしまっても問題はないのだろう。世界中の人間がアインシュタインである必要はないし、“シーザーを理解するのにシーザーである必要はない”だ。さっきから右ひざになんかふわふわしたのがぶつかってきているな、というのは感じていたけれど文章を書いている最中なので確かめることはしなかったが、この5グラムくらいの風圧の正体はたぶん羽ありなんではないかと思っている。もしくは羽ありの幻覚を感じているだけなのだろうか。私はやつをみつけたら捕縛し、そして窓から放してやろうと思っている。こころがわりをしたのだ。私は残虐で無慈悲な殺戮マシーンになることが出来なかった。私は弱い。私は虫一匹殺すことができない、弱い人間だ。しかし虫一匹殺せないような人間が殺人を犯す世の中なのだ。弱い人間をあなどってはならない。今殺意のない私は、それでもつい何かのはずみで羽ありを殺してしまうかもしれない。虫一匹殺せない人だと思っていました、とテレビでインタビューされた隣人が応えるだろう。まさか羽ありを殺すなんて……信じられません。そういえば私は隣人の顔をはっきりと見たことがない。はっきりと見たことはあるんだけれど「2回ともまったく違う顔」だった。彼から見れば私の顔も違うのかもしれない。羽ありがみんな同じに見えるように、ゲームの相手をいつまでも覚えていられないように、われわれはほんの一瞬で不可逆的に変化し続けているのかもしれない。動き回っているのだから仕方のないことなのだ。するすると動き回っている。そして不思議なことに、春洋のことを思い出す時、私の記憶の中でいつも春洋は笑っている。

居場所

 Iさんと相席居酒屋に行ってきた。
 薄暗い店内にずんずんBGMが鳴り響いている。
 ボーイさんについていって席に通される。
 テーブルの上には食い散らかされた皿が平然と並んでいる。
 ソファーに女性が座っていて、Iさんと私もその隣に座る。
 はじめて行ったにもかかわらず、Iさんは果敢に女性に話しかけた。偉いなあと思った。
 私はにこにこしながら煙草を吸っていた。
「ここでテンション上げないでいつ上げるの?」
「もっと話広げて!」
 と女性に怒られた。
 たしかに言わんとすることはよく理解できた。
 しかし私はあの女性たちと話したいことがひとつもなかった。
 私はおしゃれな食べ物の話や、芸能人の話や、住みたい町の話に興味がなかった。
 相席居酒屋というのがどういう場所かということには興味があり、体験してみることで、どういう場所なのかはっきりと分かった。
 ここはしっかりと地に足をつけて生きている人たちの場所だ。
 この世界で何かをつかもうとしている人たちの場所だ。
 私はモルモットの震動や、スパティフィラムが水切れを起こした時の落ち込んだ姿や、狂ったように鳴きながら空を飛ぶヒバリのおかしさとかを話したい。
 もうここまで来たら認めるしかない。
 私は世間一般に交わることの出来ない人間だ。
 というか私はもはや詩人だ。
 詩人はどこへ行けばいいんだろう。
 
 

考えるだけでしあわせになること

 ゲームをしている。
 時々、敵のチームに勝てるようになってきた。
 敵のチームに勝てる時は、大抵仲間にものすごく強い人がいる時だ。
 その人がチームを引っ張っていく。特に何も指示を出さなくてもそれがとても自然に行われる。要するに、その人は一人でも強いし、同時に「仲間が戦いやすくなる戦い方」をしているんだと思う。
 強い人は敵に突っ込んで行っても死なずに帰ってくる。敵が強い人にフォーカスしている時、私は横から無防備な敵を撃つことができる。弱い人が突っ込んで行くと2秒くらいで倒されてしまう。そうなると敵チームが3人で突っ込んでくるので、為す術もなく負ける。
 強い人がひとりいるだけで、仲間が全員強くなる。味方に強い人がいない時はすぐやられてしまうので与ダメージ150くらいしか出せない。しかし一人強い人がいるだけで与ダメージは1000くらいになる。私自身が強くなったわけではないのに、私もそれなりに戦えるようになる。キャリーされるという言葉の意味がわかる。小魚の群れがまるでひとつの巨大な生き物のように振舞うように、チームはひとつになる。先頭には強い人がいて、その行動のひとつひとつが無言のままチームを有利に導いている。
 近距離だとすぐ負けるので中距離武器を持つようになった。敵チームが隠れている建物を制圧したいときに中距離から狙っていると、敵の行動範囲を制限することが出来る。敵が建物から出てきたら撃つ。当たらなくても撃つ。すると敵はどこから撃たれたか分からないので建物に入る。外に出られなくなる。チームの二人がその間に建物に突入してファイトする。ファイト中に勢い余って敵が建物から出てくる。私はそれを撃つ。敵は弾に当たらないように次々に移動しなければならない。完全に見失う前に仕留めることが出来ればラッキーだし、敵がどこに逃げたかをマークするだけでチームは戦いやすくなる。敵チームがひとりダウンしたら私も距離を詰めてファイトに参加する。数が有利になったら近距離でダメージを狙った方が勝ちやすい。こういう戦略を考えるのはとても好きで、何かに似てるなと思ったら将棋だった。私は香車みたいな役割をしていて、前線に突っ込むのは金銀だ。たまに歩と歩が突っ込んで行くこともあるけれどその時には戦場に一陣の風が吹いてすべては静かになる。1分ももてばいい方で、ダメなときは敵と目が合った瞬間にもう死んでいる。索敵が充分ではなかったり、位置が不利だったり、仲間がカバー出来ない時に襲われたり、様々なパターンでチームがあっという間に壊滅する。
 ゲームは楽しい。もうすこし続けよう。
 今日、スーパーに買い物に行って、カゴにチーンズインウインナーを入れながら「帰ったらゲームをしよう」と考えた瞬間、とても幸福な気持ちになった。それは強い真実だ。
 
 
 

なにも言わずに隣にいてくれ

 ゲームをしている。
 このゲームは3人チームで行われる。
 わたしはこの二カ月間、友人2人とdiscordで通話しながらゲームをしていた。
 野良で参加する時は、まったくの他人と3人チームを組むことになるので、通話はしない。無言でゲームは行われる。
 無言でも多少のコミュニケーションをとることが出来る。あっちに敵がいるぞとか、こっちから変な音がするぞとか、あの建物を見に行きたいぞ、みたいな定型の意思表示コマンドが用意されている。
 そのような定型コマンドでさえ明らかな個性を感じることが出来る。
 意思表示せずに走りだす人もいる。勝手に突っ込んでやられてしまう人もいる。神経質なまでに報告を送ってくれる人もいる。仲間のライフが少ないのをいち早く察知して回復アイテムを投げてくれる親切な人もいる。走り回って飛び跳ねて無邪気に遊んでいるだけの人もいる。キャラクターの行動には表情も言葉もないのに、非常にたくさんの情報が含まれている。
 そしてわたしはそのような非言語的コミュニケーションがものすごくとても好きだ。突然敵に撃たれてびっくりしておろおろしている仲間を見たりすると「人間だなあ」という気持ちになってほっこりする。冷静に撃ち返している人を見ると「この人はすごうでだなあ」と思ったりする。
 まったくの他人とチームを組んでいると、時々とても相性のいい人たちに出会うことがある。おたがいに指示を出さなくても、この人がどこを見ているのか、何をしたいのか、どうやって戦うのが好きかというのが分かる。射線でさえ言葉であり、意思表示であり、コミュニケーションだった。ここに一体感というのがあって、これが結局は純然たるスポーツだった。
 そういうチームとゲームをするのはとても気持ちがいい。勝てなくてもすばらしい気持ちだ。野良のチームは一度きりの即席チームなので、おそらく二度と会うことはない。それでもなんか急に他人の操作するキャラクターが私の隣に立って、特に何をするでもなく同じ方向をぼうっと見つめているだけのような瞬間は、消費される宿命の言葉がないからこそ、ちょっぴり永遠だった。