声はわたしに語りかける

 友人と夜な夜なゲームをしている。
 あの頃のように。
 話の流れからゲームを録画することになり私がその役目を承った。
 録画した動画を編集ソフトで加工しようと試みたけれどPCのスペックが足りなかった。
 頻繁に編集画面がフリーズするしエクスポートが完了する前に処理が停止してしまう。
 仕方ないので生のデータをyoutubeにアップして限定公開し友人にも見られるようにした。
 友人のひとりが「俺の声がキモすぎて死にたい」というようなことを言った。
 わかる。
 とてもよくわかる。
 自分の声を客観的に聴く機会は人生で何度かあって、そのたびに「俺の声がキモすぎて死にたい」と思う。
 大多数の人間は自分の声がキモすぎると思っていると思う。
 しかし変な声ではない人間の声なんてほとんどないし、変な声でなくとも変な発音とか、変なイントネーションとか、変な言葉遣いとか、変なところは無限にあるので死にたさには事欠かない。
 というか変なことが当たり前なので気にしているだけ損だ。
 気にすればするほどダメージが増加するし、しかも声は取り換えが効かないので対処するのが非常に難しい。
 配られたカードでどうにかゲームを続けていくしかない。
 私は自分の顔も長年大嫌いだったけれど、大嫌いでいるのが無駄だなと思ったので友人たちに自撮りした写真を何枚も送って笑わせているうちにだんだん顔のキモさに慣れてきて、むしろ今ではそれほど嫌いではなくなった。それは私の顔が変化したわけではなくて、私が急に映画俳優のような顔になったわけではなくて、私の心が私の顔を受け入れたということだった。私は自分の顔の画像をプリントして写真にして会社の人に配ったりもした。一瞬の笑いが私を助けている。私は私の顔と長年向き合って私の顔に慣れた。
 私は私の声のユニークな部分をもっと自分自身に見せつけようと思う。私の声はとても低く、小さく、もごもごしていて遅く、不明瞭で、会社で業務中に他部署に電話をしたら相手が「なんか食ってる?」と言ってきたことがあるくらいのものだし(何も食べていなかった)、活舌が絶望的なので頻繁に噛みまくるけれど、それでも案外この声で困ったことはない。しゃべり方で怒られたこともない。朝礼の当番になった時、あまりに私の声が小さすぎて聴いていた同僚たちが三歩くらい近づいてきたことがあってあの時は私が笑ってしまいそうになったけれど、せいぜいその程度だ。
 必要最低限の役割は果たせる声だ。まったく不都合はない。
 私は時々、本を音読する。音読している時の自分の声は結構好きだ。とてもなげやりな感じで朴訥さが限界まで前面に押し出されている。このようにして私は自分の好きな自分の声を少しずつ発掘していきたい。
 ところで声よりももっと衝撃だったのは、ゲーム中の私は全然面白いことを言わないことだった。これは声どころの問題ではない。声の使い方の方がよほど問題だ。どんなにキモい声でもいいことを話したり面白いことを話したりできればそれはそれでよくて、どんなに美しい声だってしょうもないことばかり話しているなら無駄なうつくしさではないか。
 私は自分がすごくしょうもないギャグをぽつりぽつりとつぶやいたり、敵に襲われてパニックになったりしている自分の動画を見て、死ぬほど自分がつまらない奴だと気がついた。ぜんっぜん面白くない。声もキモい。
 そして逆説的にVTUBERってすごいんだなと改めて発見した。あの人たちはすごかったんだ。何時間もゲームをしながらしゃべり続け、しかもコンプラ的にクリティカルなことを言わないように気をつけ、そこそこ面白いことを言い、その合間にコメントを読み、褒められたり貶されたりを全身に浴びながら毎日毎日配信をしている。
 まごうかたなき「仕事」だった。
 仕事でもなければあんなことできないと思った。