わたしは触って生きる

 渋谷駅のホームにくしゃくしゃの真っ赤なティッシュが三つ転がっていて椿の花みたいだった。あまりに鮮やかな赤だったので手に取ってたしかめたくさえあった。汚いのでやらないけど、それでもうつくしくひかりをはなつ赤色は、思わず触れたくなるものだと思う。
 わたしは比較的なんでもかんでも触ってみたい人間である。触ってみると、触ってみないことよりもはるかにたくさんのことを知ることができる。たとえば、巣鴨の町の入口には、巣鴨のマスコットキャラクターである「すがもん」のおしりがあるのだが、巨大なおしりだけが宙に浮かんでいる謎の空間があるのだが、そのおしりは案外固い。触ってみなければすがもんのおしりが固いという情報を得ることはできないので、わたしは触ってみてよかったと思う。
 ポテトチップスは触りたくないけれど、でもギンビスのアスパラガスは触りたい。そういうものもある。食パンは触りたくないけれど、チョココロネは触りたい。要するに、手に何かつきそうなものはあまり触りたくなかったりもする。
 ずっと前に一度書いたけれど、人間が一番触りたいと思うもの、あるいは触った時にしっくりくるものって「木の棒」だと思う。子供でも大人でも「いい感じの木の棒」を見るとつかみたくなる衝動がむくむくと湧いてくるものだと思う。あれは人間の本能に刻み込まれている木の棒に対する飽くなき欲求の表れだと私は思う。実際、いい木の棒というものは手に持った瞬間にとても馴染むし、なつかしさや、万能感さえ感じることがある。どうしてそうなるのかというと、人間はお猿だった頃、木の枝をつかむことが生活そのものだったからだ。人間の体の原型は、枝から枝へ移動を繰り返すための設計なのだから、人間の「手」という構造が木の棒をつかんでしっくりこないはずがない。木の棒をつかむためにあると言っても過言ではないとさえ言えなくもない。だから木の棒を見るとつい手にとってみたくなるし、いい木の棒をみつけると、ただそれだけでうれしい。ただそれだけでうれしいというシンプルな機能・感情が、わたしはとても好きなのだ。昔、お猿だった私の祖先に敬意を払いたい。木の棒をたくさん触ったり握ったりしよう。
 今一番触りたいのはつるつるに研磨した宝石で、つるつる触りたい。触ったあと、磨きたい。宝石って光がきれいに反射するようにカットして研磨するものだけれど、そのカットした破片をたくさん集めたら何トンになるんだろう。粉やかすやくずになった原石はただのゴミになるんだろうけれど、なんだかもったいない気もする。原石って見た目は結構きたないけれど、そのきたなさが私は好きで、だってそのままでも宝石なのにな、と思っている。タイタニックのラストシーンでおばあちゃんがダイヤモンドを海に投げるロマンチックなシーンがあるけれど、たぶん海の底は捨てられたたくさんのダイヤやサファイヤやルビーでとてもきらきらしている。という想像をしているわたしが一番ロマンチックな宝石のような心を持っている。このうつくしい心を投げたり拾ったりしよう。
 それから犬やモルモットや山羊に触りたいような気持ちも最近は芽生えてきた。youtubeでおすすめ動画に出てくる犬の動画を見ていたら余計に気持ちが強くなってきた。動物をなでるのは好きだ。馬や山羊の毛はものすごく固い。犬や猫の毛はやわらかい。やわらかい毛のことを和毛と書いたりするけれど、にこげという言葉は面白くてほほ笑んでしまう。日曜日出勤の同僚のひげが伸びているところを見るのも好きだし、隙があれば私はそのひげさえも触る。そのひげを触ってもいいという人のひげを触る。ひげは固い。そして生きている感じがする。犬や山羊の体があたたかく、血が通って細かく震動しているのと同じように、人間の体もあたたかく、そして細かく震動している、その共通点が、すべて動物であるという実感が、体感が、触感が、つまり触知ということだ。わたしは触る。さわるとたくさんのことがわかる。
 触ったあとは、手を洗う。