小学生の頃、学校が終わるとY君の家に行った。
Y君は住んではいけない場所に住んでいた。
私はY君の家でミュータントタートルズのゲームをした。
それからストリートファイター2をした。
時々はY君の家の近くのいとこの家に行ってスターラスターをした。
ミシシッピー川殺人事件やさんまの名探偵、たけしの挑戦状もした。
H君はPCエンジンを持っていたので妖怪道中記をした。
くにおくんの時代劇だよ全員集合もした。
誰かとゲームをすることで私は人間を知った。
人間の表情や声や体の動きよりも、その人が動かすキャラクターの方が、その人自身を的確に表現しているようだった。
少なくとも私にはそうだった。
中学生の頃、放課後はA君の家に行った。
A君は墓地の横に住んでいた。
アーマードコアやエースコンバットをした。
アジトやテイルズオブエターニアをした。
U君は64を持っていたので、スターフォックスをした。
マリオパーティーをした。マリオ64もした。
D君はゴールデンアイを持っていた。
D君の家には毎日誰かがいて、ゴールデンアイをしていた。
狭い部屋に7人も集まった。
そして思わず全員が笑っていた。
ゴールデンアイをして笑わない人はいなかった。
高校生の頃、放課後はS君の家に行った。
ナイトファイアをした。ニードフォースピードをした。
地球防衛軍をした。徹夜でゲームをした。
私はいつもゲームをしていた。
ひとりでゲームをしたし、人とゲームをした。
最近、古い友人たちと夜な夜なゲームをしている。私たちはアラフォーのおじさんたちだが、誇り高きテレビゲームネイティブ世代だ。
インターネットを通して集まってはいるけれど、やっていることは高校生の頃と全く変わっていない。
このコミュニティーの在り方は、私にとって、あるいは私たちにとって、とても自然であり、基本的な形態なのだと思うようになった。
カウボーイビバップに、いつも一緒にいるおじいちゃんの三人組が出てくるけれど、あの形だ。
ここに社会とのつながりがある。
生きるためではなく、そんな切羽詰まった集団ではなく、ゆるやかでほがらかなつながりだ。
肩肘張らず、利害関係のない、裏表のない、気安く話せる誰かが、いつもの場所にいるということは、実は得難いし、尊いし、ありがたい。
誰しもがひとつくらいは、このようなぼんやりあたたかいコミュニティーに含まれていたのなら、せかいはもっとへいわになるんじゃないかとおもう。
ゲームじゃなくてもいい。お茶のみ友達でも、パチンコ仲間でも、なんでもいい。居心地のいい人達に囲まれていてくれたらな、と私は思う。