刺激でも快楽でもないスピード

 雨が降っていた。ちいさな雨が降っていた。すずめのなみだ。みたいな、くらいの。
 生きているの辛いな、となってきた。結局なるんだ!? となった。というのも、ぼくは単純に疲れていた。疲れ反射だ。会社から帰宅してすぐにヘルメットを持って家を出る。電車に乗る。大きいバッグがとても大きい。
「ヘルメットさん、どうしてあなたはそんなに大きいの?」
「大きい頭を守るためだよ」
「どうして頭は大きいの?」
「夢や希望がたくさん入るようにだよ」
 両手が塞がっていたから水滴の滴る窓の外を眺めながら考えようとした。けれど考えることは「塾通いの子供たちはみんなこんな日々を過ごしているのか」だった。
 ぼくは習い事をしなかった、あの頃はまだ子供だった。部活はやったけれど学校とは違うコミュニティーに属するということはしなかった。子供会とかも行かなかった。ぼくは大人になった。
 どんどん暗い気持ちになってきた。鬱だ。鬱になったので鬱を笑い飛ばしている間に教習所についた。やはりメンタルが安定していないのか、何もかもつまらない……かなしい……という気持ちになってきた。しかしバイクに乗ったらその気持ちはなくなった。単純に考え事をしている暇がなかった。でもたぶん考えごとをする余裕が生まれてきたら、その時にはぼくはバイクに飽きているんだろうと思った。ギタリストの最高潮の話。霧のような雨。夜の教習所。エンジンの鼓動。ガソリンが焼けるにおい。「優秀なインストラクター」と書いた腕章をつけたおじさんが、待ち合わせ場所に全然来ないので、ぼくはビッグスクーターのエンジンをふかして遊んでいた。ぶおんぶおんぶおーん。ぶおんぶおんぶおーん。このぶおぶおが一番練習になるし、このぶおぶおだけ1時間やってもいいくらい大事だと思った。アクセルを一センチひねるととんでもなく加速するから、教習所のはじめのころは2ミリくらいしかアクセルをひねらない。でもその2ミリのアクセルが一番難しい。
「やさしいって一番むずかしい」とぼくは思った。
 速い、は意外と簡単だ。安定するから。凶暴に加速する、簡単だ。でもゆっくりになればなるほど難しい。美術館でもそうだけど、大概の人間は絵を5秒くらいしか見ない。もっとぶおぶおしてから他の絵を見ればいいのに、と思わないでもない。しかし彼らは美術館暴走族なのだ。暴走族の生き様なのだ。スピード、スリル、そしてより速く新しい刺激を求めて移動するのだ。消費社会。いや、ぼくも人のことは言えない。ゲームをすぐクリアして売りに出してしまうぼくには、何も言う権利はないのだ。人に非ず。草に生まれれば良かった。よい香りのする草に。よい香りのする草になったら、ぼくは高いマンションの屋上の、ちょっとした泥だまりに生えたい。そしたらすごくいい風が吹くだろう。陽射しがふりそそぐだろう。その屋上は立ち入り禁止だから、誰も人が来ないし、動物も来ない。ぼくは何ものにも影響を与えない、いい香りの草としてそこにただ生えているだけだ。
 雨はやんだ。優秀なインストラクターは来た。いい笑顔の人当たりのやさし~いおじさんだ。誰もが好印象を抱くような、たしかに優秀な。速度を出せば安定する。視界は狭まり、より集中が必要になる。もしかしたら安定というのは速度なのではないか。
 美術館暴走族が速いのではなく「ぼくが遅すぎた」のではないか?
 だからこんなにもふらふらしているのではないか。そう考えると妙にはらに落ちてくるものがある。ぼくはもっとスピードを出してもいいのかもしれない。そうだ、ヒントは「慣性」だ。
 より速く。疲れや、不安や、虚しさを追い越して、見えなくなるまで。