無暗

 前後を考えないこと、度を超すことを無暗というけれど、言葉の意味とは裏腹に、無暗という言葉そのものは、妙に明るかった。前後を考えて行動すること、度を超さないように注意して行動することは、有暗だということになる。たしかにまあ、何事も慎重に分別をわきまえているような人間は、闇を抱えてんのかもしれぬな。なんも考えてないばかに闇などないのかもしれない。
 
 考える力がなくなってきたら、考えなきゃいい。ものは考えようである。
 ぼくは根暗だが、無暗な人間なのだと思う。
 今日は自動車教習所に行ってきた。家からほど近い場所にある、東京でも屈指の人気教習所らしい。混み過ぎて技能教習は1ヶ月後からになります、とwebページにも書いてあるほどで、行ってみるとたしかに人が多かった。待合ロビーの椅子のほとんどが人で埋まっている。何かをただひたすら待っている人達が並んでいる光景は、どこか気が抜けていてあほらしかった。病院ほど切迫してもいないし、競艇場ほど殺気立ってもいない。教習所の時間は、うすらぼんやりとあかるい。
 ぼくはバイクの免許を取ることにしたのだった。なんとなくそうしようと思った。バイクに憧れたのは中学生の頃で、ずっと免許を取ろうと思い続けてきたけれど、ようやく自分の中でその方向へ向かおうとする力が出てきた。人生には毎年毎年何かが起きるけれど、今年は免許の一年になりそうだ。受付でお金を払って入所式をして適性検査を受けてさっさと帰ってきた。今月末からようやく教習がスタートする。早くバイクに乗りたい。でもなんというか、ぼくは教習中にバイクに飽きると思う。その予感がひしひしとする。
 バイクの思い出は四つしかない。はじめて乗ったバイクは20代の初めのころ、地元の友人が貸してくれた原付スクーターで、試しに町をぐるりと回ってすぐに返した。その時は別に面白くもなかった。ちょっと怖かったしわくわくしたけれど、思ったより素敵なものではなかった。
 ふたつ目の思い出は、東京に来たばかり頃、清掃会社のやんちゃそうな年下の同僚の125ccスクーターのタンデムに乗せてもらったことで、その時は少し爽快だった。スピードが早かったし、大都会の町の中を風を切って進む感じは気持ちが良かった。
 みっつ目はイヨシ氏の250ccのタンデムシートで、普通に怖かった。スポーツ車のタンデムシートは小さいし狭いしよく滑るので、体がまったく固定されていないジェットコースターに乗っているのとほとんど同じだった。ちょっと腰を浮かそうものなら後ろにすっ飛んでいって地面を転がることになる、という感じだった。イヨシ氏はニーグリップを教えてくれた。俺の腰を両足でめちゃくちゃ強く挟め、と教えてくれた。友人のケツを両足でぎちぎちに締めるのに強い抵抗があったけれど、やってみたらたしかに安定した。バイクによって色々な乗り方があるのだなあと思った。
 よっつ目は、石垣島で借りたレンタルスクーターだった。5年くらい放置してました、という感じのぼろぼろのスクーターで、めちゃくちゃださい半帽のヘルメットがついてきたけど、それでも感動するほど面白かった。誰も人がいない南の島を無暗に走り回った。丘の上に牛が歩き回っているような場所だった。広い海が視界いっぱいに広がったかと思えば、ひなびた町が陽だまりの中で生きている。突然雨が降ってきてびしょ濡れになっても、すぐに晴れるので南の島の太陽で服は乾いた。顔に虫が激突してくるし、エンジンがかからなくなって泣きそうになったりもしたし、坂道ではアクセルを全開にしても自転車くらいしかスピードが出なかったし、体のすぐ横を車がびゅんびゅん追い越して行って怖かった。でも、そういうのも全部含めて車とは全然違う面白さがあった。バイクは無暗は乗り物なんだと思う。タイヤが二個しかついてないんだから、どう考えたって最初から無暗なのだ。
 ぼくが乗りたいバイクは、石垣島のスクーターであり、おそらくあれ以上に楽しい体験は、これからもないだろうと思う。東京の道路に自由さはない。いちいち駐車場を調べないとどこへも行けないような不便さは、あちこちに危険が潜んでいるような不快さは、ぼくがバイクに望んでいるものとは正反対だ。だからぼくは教習中にバイクに飽きると思う。もし免許を取っても、バイクを買わない可能性さえある。買っても乗らない気もする。それでいいと思う。人間の心は変わるものだし、ぼくは無暗が好きだから。