風呂上がりにパソコンの前に座った瞬間、左足をつった。もんどり打っている間に左の脇腹もつった。はじめての経験だったので対応に迷ったいるうちに右足もつった。こうして下半身すべて引き攣らせた男が完成した。男は奇妙に笑いながら床の上を転がっていた。孤独な苦痛は滑稽で、男をにわかに愉快な気持ちにさせた。それは真夜中の23時のことで、人々は安らかに眠りについていた。
登山の影響である。全身が疲労でもったりしており、下半身には淡い筋肉痛の感覚がまとわりついている。ぼくは肉体的な疲労の安っぽさが好きだ。精神的な疲労に比べれば、こんなのは疲労とさえ呼べない。2、3日で回復してしまう。心の疲労は何ヶ月経っても消えることがない。
奇岩巨岩がたたずんでいる小川に出た。辺り一面苔むしている。何年もかけて苔は成長してきた。岩は転がらず、風はやみ続け、小川は流れ続けた。時間が止まったように静かな谷だから、そこには苔が生える。ローリングストーンズに苔は生えないという。なるほどアメリカンロックだ。でも、しずかに苔る岩には、侘び寂びがある。どちらの岩もよい。
一筋の滝が水面を打つ。ほのかな水煙の中に二人の女性が立ち、手を合わせ頭を垂れている。祈っている。背の高い方の女性が「サンキュー!!」と叫んだ。そしてやにわに滝の横の岩壁を抱きしめた。全く意味は不明だが、なんとなくエモかった。まあ岩を抱きしめたい時もあるよな、とぼくは思った。
「こんちは」と挨拶すると「ナマステ」と返ってきた。本場のナマステは、文字通りの発音でリスニングが容易だった。東京の山奥でナマステされるここが日本か。飛び石の隙間を流れる清流は滑らかだったから、さわってみた。しっとりした水だった。海水でも水道水でもない川の水。
急坂を登りきって汗にまみれベンチに腰を下ろすと、後ろから追いついてきた二人の小学生が近くのベンチに座った。どちらも激しく息を切らせている。弟が「ねえ、水は」と問う。兄が「無いよ。自動販売機がないから」と答える。弟は再び「水は」と呟く。兄は何も答えない。それを見かねた善意の中年Aが「大丈夫ですか、水ならありますけど、コップとかあればわけるよ」と敬語で語りかける。弟の方が「大丈夫です。そういうの買うお金はあるので」とすげなく断った。善意の中年Aは笑い、そして言葉を飲み込む気配がして、自分のベンチに戻った。ぼくはその光景から礼儀正しく目を逸らし続け、そしてスポーツドリンクを飲みまくっていた。文学みたいだなと思う。
泥のついた登山姿で吉祥寺の書店に向かった。歩いてきた眼鏡の男性と一瞬目が合い「こんちは」と言いそうになった。それから町のルールを思い出した。ここではすれ違う人間に挨拶をしたりしない。水を分けようともしない。どんなものにも苔が生えていたりしない。本を手に取りぱらぱらめくった。はじめて文明に触れた気がした。