夏のグラビティ―

 グラビティ―が厚い。
 重力変動源がぼくの直下にある。
 あまりに強い陽射しがきちんと質量を伴っている。シルクのような希薄さではあるが、それでもたしかに頭や肩にふわっと光の重さを感じている。というのは冗談半分であるにせよ、光を推進力とする宇宙船のモデルだって、宇宙図鑑には載っていた。つまりビームだ。“ぼくは太陽光に押されている”天から地へ、とても弱いけれどたしかな力で。

 世のなかのありとあらゆる、人間が生み出したものは、すべて、健康か時間か快感のためにある、と気がついた。原理的な発見だ。掃除機、時間と健康と快感のため。パン、健康と快感のため。エアコン、健康と快感のため、自動車、健康と時間と快感のため、という具合だ。ぼくはすごい発見をしたと思い、二日ほど夢中になって考えたが、この考えは原理的ではあるけれど、であるが故に応用が難しいというか、端的に言っておもしろい発展がなかった。すべてのものは健康か時間か快感のためにあるとして、だからどうだというんだ。それが人類の目的だとして、人間の根源的な欲求だとして、それが何かの足しになるのか。人間は血と骨と肉で出来ている。と言っているだけではないのか。分解するだけなら子供にだって出来る。重要なのはだね、そこから何を導きだすか、ではないのかね? ぼくは10kgのダンベルを持ち上げ「しかし考えるのは面白い!」と思った。
 
 一日5分でお手軽に世界が変わります!
 そうかもしれないなあと思った。5分かける365日は1825分。一年で30時間になる。30時間あれば余裕で二輪の中型免許が取れる。うんと短い5分ではあるが、5分で世界が、自分が、人間が変わっていくのかもしれぬ。しかし、とぼくはさらに掘り下げる。5分の質が非常に大切になる。たとえば100mを全力で走るとすると、ぼくは13秒ほどかかる。この13秒と、寝ているだけの5分とでは、かなり質が異なる。5分間全力で走るのと、5分間歩くのとでは全然質が異なる。時間の尺度だけではなく、内容なのだ。5分間で何を成すかが重要なのだ! この5分間の成果の連続が世界を変えるのだ! とお風呂に入りながら考えていた。ぼくは息を止めて熱いお湯に顔を突っ込んだ。顔を上げて「んぱぁ!」と息を吐いて息を吸って熱いお湯に顔を突っ込んだ。そういうことをやりながら、映画でよく見る拷問みたいだなあと思った。風呂から上がるとお肌がもちもちになっていた。拷問の5分の質は高い。
 
 業務後に教習所に行った。しんどい。暑い。疲れた。なんか湿ったシャツを着ながらヘルメットの入ったバックパックを抱え電車の端っこの席に座っていたが、涙がにじんできた。夏のばかたれめ。電車のドアが開くとセミの声が夕暮れをゆらしている。セミは鳴くとき、めちゃくちゃ気持ちがいいらしいと聞いたことがある。超気持ちいい~! と思いながらセミは鳴いている。全然必死なんかじゃない。夏だけで死んでしまうなんてかなしいね、なんて感じではない。情緒もへったくれもあったものではない。ただただパリピな暑苦しさでセミははしゃいでいる。そう思うと元気になってきた。教習所まで這いずって歩き、バイクに2時間乗った。頭がぼわっとして運転どころではなかったけれど、今日もバイクは面白かった。あと4,5時間で大型教習もおしまいだ。8月の頭には免許を取れていることだろう。寂しさはないし、大した思い出もない。ただ楽しかったという感覚だけが夏と共に過ぎ去る。