自由

 何日が経ってどこで何をしているのかの感覚がすっかり薄れている。
 行動も思考も具体性を失ってほのかにきらめいているのみだった。ぼくは寝ていた。纏っていた社会性はほぼ一瞬で霧散しいつもとは違う毛皮を羽織っていた。環境に順応すること。通じる可能性の少ない言葉で随分満足することが可能だった。誰かに伝えなければいけない、という気持ちや感情や事件は孤独によって核心を失っている。これが孤独というものの効用と副作用。つまりすこしずつぼくは狂っている。ずっと前からぼくの中に狂い=自由はもちろん存在したけれど、環境がそれを助長する。学校に入れば学生らしく、監獄に入れば囚人らしく、人間は環境に適応するために自らを作り変える。ロックを聴くと馬鹿になるわよ、という言葉が何十年前か前のお母さんのお小言で、さらに何十年か前には落語を聴くと馬鹿になると言われており、しかしそもそも何かを学ぶ、吸収するということは、対象に対して馬鹿になるということだった。新しい物に触れる時、自分をゼロにして取り組む必要があることは、また1から学ぶ必要があることは、何かの本に書かれていた通りだ。
 ぼくはネットカフェで寝ていた。埼玉のネットカフェだ。固い枕は頑丈な革張りで変な匂いがした。枕元にはマンガ本が数冊散乱していた。それは眠る直前まで読んでいたマンガだ。時計を見ると1時間ほど気を失っていたことになる。のどが乾いている。ぼくは裸足で、Tシャツを着ているだけの格好で部屋は寒い。黒いフラットマットの底が冷え切って寝転がった体から熱を奪う。ぼくは魚が飼いたいと思う。小さなきらきら輝く小魚が小さな青い水槽の中で泳いでいるといい。軒先の金魚鉢の中に数匹の金魚が泳いでいる光景を思い出した。確かあれは尾道の家。狭い部屋だ。足をぎりぎり伸ばせるくらいの広さしかなくて大きなテーブルの上には簡素なモニタキーボードそしてパソコン本体が置いてある。金色のガチャガチャのボール。先輩は生きているだろうか、心配になってスマホを確認するも連絡は何もない。酷く眠いし疲弊しており、しかも時刻は早朝5時で、早く眠りたい。まったく眠っていなかった。生きているなら先輩はぼくが眠っていると思っているだろう、きっと。ネットカフェのマットの上に倒れ込んで眠っている、休んでいる、なにひとつの不安もなく。そんなふうにきっと、そんなふうに振舞ってしまったから。しかしぼくは眠っていない。1時間気絶していただけで、さっきまでずっとマンガを読んでいたから。そしてぼくはこれから眠るつもりもない。睡眠不足で疲弊していて腹が無暗にいっぱいで、そして頭がぐるぐるし胃の調子も悪く、何かひとつでも失敗が起きれば人生がそこで、まるでホテルを予約し損ねた旅先であるかのように終わってしまうかもしれない可能性は誰にでもあった。ぼくはマンガを読むつもりで、そしてマンガを読み始めた。読みたいマンガは健康より優先されるべきだ。いまのぼくにはということだが。個室に持ち込んだマンガは残り6冊ほどあった。ぼくは涙をながした。マンガは完結していなかった。もう十年以上も新しい巻が出ていなかった。化物語が流行ったのって10年以上前だもんな、とぼくは関係なく思った。新しいと思った作品がぼくの中でかがやきを失わないまま古びていくとき、同級生の皺が増えた顔も出会った頃の印象のまま認識されるのかもしれないな、と不意に考えた。すごくかわいい女の子だったんだ、俺はその子と塾が一緒で、何回か話したこともあるんだ、と温泉で先輩は誇らしそうに言った。本当にすごくかわいかったの。と先輩は遠くを見ながらほほ笑んでいた。それはきっと本当にものすごくかわいい女の子だったんだろう、そして今も先輩の中ではその人はかわいい女の子のままなのだ。そういう気持ちがわかるし、そういう気持ちが実感できるようになっていた。ぼくは焼き肉を食べていた。一皿1500円のカルビは油の差し方が大胆で口に入れた瞬間とろけてしまうかのようだった。ヨモツヘグイ。死者の国の食べ物を食べると死者の国の住人になってしまう。郷に入っては郷に従えなのよ、と姉は言った。原住民と仲良くなるには、その人達と一緒の食事をするのが一番です、と冒険家は言った。それらはぼくにとっては同一の事実を多角的に表現されたものに過ぎなかった。誰かと何かを食べること。医食同源。からだは食べた物でできている。食べるということには空腹を満たすということ以上の意味がある。
 ぼくは寝ていた。そして寝続けながら旅を想起した。何をしたのだったか。窓から光が差した。洗濯をして区役所に向かって書類を提示した。スーパーで買い物をした。2時間ほどかけてブックオフまで歩き本を何冊か買った。生きていた。ぼくは人生で最も解放されている瞬間にいた。今この時、この刹那がレトリックではなく人生史上最も制約の少ない自由時間だった。なるほどな、とぼくは思った。なるほど、本当の自由の中でぼくは、頭の中に空白が満ちている。