鳥、および異食恐怖について

 昨晩、21時。姉の家に向かった。

 22時着。姉の家には2人と1羽がいて、その顔ぶれは変わらない。よいことだ。
 鳥はぼくのことが大好きだ。必ず体をよじのぼってきて、シャツの中やズボンの中に入ろうとする。鳥はとてもかわいいけれど尋常じゃないほどしつこい。3歳児程度の知能があるらしいけれど、おそらく3歳児も相当しつこいのだろうな。本当に苦痛なので「鳥を身体にまとわりつかせる刑」というのが実際に中国あたりにあったはずだと思ってネットで調べたことがある。そういう刑はなかったけれど、鳥に体をついばませるという刑はあったらしい。ほとんどそれだと思う。服に鳥が潜り込むと羽がくすぐったいし爪が刺さるしクチバシでついばまれる。一気に疲れる。クチバシで強く噛まれると、ホチキスで肉を挟まれるのと同じくらい痛みがある。血も出る。可愛いからといって子供に鳥を触らせようとする親がいたら、止めようと思う。小さなインコでも子供の指の皮程度なら簡単に突き破れる。クチバシは鳥のほとんど唯一の武器だから、それなりに強い。姉も姉の友人も服の中に鳥を入れたがらないので、たまに遊びにくるぼくの服の中に入ってくる。服の中に鳥が入ってきたらもう服を脱ぎ捨てるしかない。服の中に手を入れて鳥を取ろうとすると猛烈に機嫌が悪くなって噛まれる。噛まれた手を振り払うこともできない。そんなことをしたら鳥がけがをしてしまう。服にしがみついている鳥を乱暴に剝がすこともできない。爪が折れてしまう可能性がある。鳥の中途半端な弱さはデリケートで、扱いが難しい。そして鳥もそのことを心得ているように思われる。つまり鳥はぼくたち人間が乱暴にはしてこない、ということを前提にして好き勝手に暴れるわけである。甘やかされている。
 半裸になって脱ぎ捨てたシャツの中で鳥がもぞもぞ動いて楽しそうだ。この鳥は木の穴に巣を作るので狭い空間がとても好きだ。油断してると布団の中にも入ってくる。やせっぽちな小鳥のくせにやたらガッツがあって馴れ馴れしくて、ジャイアンみたいな性格のやつだ。さんざん遊ぶと眠たくなって、携帯を持っている指の上に登ってきて目を閉じて寝る。フリックすると鳥の体が揺れるのだが、鳥は全然気にしない。甘えたくなると指に顔を擦り付けてくるので、優しく握ってあげると気持ちよさそうにする。そうしている時だけはたしかにかわいい。いなりずしのような格好になって、手の中に収まっている。またこの鳥は変な癖があって、寝ている人間の口をちょんちょん突っつく。それが何を意味しているのか、誰も分かっていないんだけれど、鳥はきっと寝ている人に起きて欲しいのだと思う。寂しくなると自分の名前を絶叫する。いわゆる呼び鳴きというやつだけれど、その時はとても必死な声で鳴く。感情表現が豊かな鳥だ。口を半開きにしてあさっての方向を見てぼうっとしていることもある。そういう時は、本当に何も考えていないんだなあとわかる。まったく意思のない目をする。怒ると飼い主にしかわからない程度に目が吊り上がる。気に入らないものがあると全力で排除しようとする。よくマンガで、とても速い連続攻撃の表現として、手の残像をいくつも描くことがあるけれど、あの攻撃の実写版みたいなものすごい速度で多角的なかみつき攻撃をする。これは見ていて非常に滑稽で、鳥を飼ったことがない人は一度も見たことがない状態だと思うので見せたい。小さいぬいぐるみなどが嫌いみたいで、見かけると徹底的にやっつけようとする。猫の喧嘩も早送りみたいな速度になることがあるけれど、あれに似ている。鳥は細長いものを恐怖する。まごの手などを見せると驚いて逃げる。たぶん蛇を想起させるからだろう。鳥は時々口から胃の中のものを出してぼくにくれようとする。指でくちばしをつまんであげると、指を雛だと思っているのか餌を吐いてくれるのだった。とても苦しそうに見えるのだけれど、これが鳥の愛なんだと思う。ぼくは鳥が好きだ。今まで実家では何羽も鳥を飼ってきた。窓から飛んで逃げた鳥もいたし、ぜんぜん懐かない鳥もいたし、今の鳥のようにものすごく人懐こいのもいる。鳥の個性も様々だ。人間と同じだ。鳥はヒステリックでサイコパスでわがままだけれど、甘えん坊で寂しがり屋で情が深い。姉の家にいる鳥は、もう10年も生きていて、そろそろおばあちゃんなんだけれど、ぼくの顔を覚えている。それだけでうれしい。
 
 23時。姉の友人の手料理を頂く。ステーキ、サラダ、豚肉塩スープなど。
 人が作ったごはん、うまいものだなと思う。おいしい時はおいしいと伝えることにしている。おいしくない時もなるべくおいしいと伝えることにしている。出されたものは、おなかがいっぱいでも頑張って食べることにしている。ただ一言、ステーキは熱いうちに食べさせてくれと思う。それは言ったことがないけれど、マックポテトは10分を過ぎると劣化がはじまるように、肉料理というものは冷めるとどんどん味が落ちてしまう。落ちたって別に構わないんだけれど、できれば最高の状態でぼくはたべたい。それが出された料理に対するマナーなのではないかと思う。死んだ牛に対する礼儀なのではないかと思う。一番うまい状態で食ってやることでしか食材に対する贖罪はないと思う。でもきっと「待たせる」ことの方が悪いことだと姉の友人は思っているのだろう。おなかが空いたと言われることは苦痛だし不快だ。その気持ちもよくわかるので、冷めたステーキでもやはりうまい。姉の友人は長い間、調理師として働いてきたから、料理はもちろんうまいんだけれど、料理に対する熱をずっと前に失っていて、どうすればおいしいものを食べさせられるかということを、もう考えていないと思うし、考えたくもないのだろうなと思う。その気持ちは、たとえばぼくがブログを書く時の気持ちに似ていると思う。情熱を失っているけれど、必要だからそれをしている。だから、ステーキは焼き終わった瞬間に皿に出してもらって「急いで食え!」と言ってほしいと思う。ぼくはそのためなら、焼きあがるのをずっと待つことができると思う。あと料理中にコンロの近くで煙草を吸うの、あんまりよくないと思う。たぶん、煙草の灰がフライパンに入っていると思う。ワンピースのサンジに影響を受けすぎだと思う。ぼくはキッチンで煙草をくわえているサンジがあまり好きではない。あの人たちは海賊だから煙草の葉や灰が食べ物に入ったとて「うんめぇー!」などと言いながらマンガ肉をむさぼるのだろうけれど、どんなにおいしい料理だろうと、煙草の灰が入ったかもしれない料理をぼくはあんまり食べたくないと思う。ただ、世間一般の人の中には、そうは思わない人がいるってことも重々承知している。そういうことを想像さえしないだろう。ぼくは、正直に書くと、異食恐怖とでも呼ぶべき心理的負担があって、異物が入った食べ物がとてもとても嫌だ。その点においてのみ、潔癖だと言ってもいいと思う。コップも皿も箸も、使う前に必ず洗うし、もっと顕著なのは、ぼくは食べ物が入った食器の上に手を通過させることさえしない。誰かのコップが目の前にあって、その向こうに醤油差しとか何か取りたいものがあったら、コップをよけて醤油差しを取る。ぼくのこの癖に気がついている人はまだ誰もいないし、だからそのことを知らない友人がぼくの食器の上に手をかざしたりすることは当たり前にあるし、その時ぼくは生唾を飲み込んで緊張しているということを分かっている人がいないし、分からせないようにしてきた。何しろぼくはぼくのこの状況が異常だと分かっているからだ。何度か書いたけれど、とある映画館で、ポップコーンを食べていた人が、まだ中身が入っているのに、ポップコーンを床に置いて、その上をまたいで通れ、とぼくに目で合図したことがあって、その時、信じられないという気持ちになった。食べ物を様々な人間が通る床におくというだけで、すでにぼくにはありえない出来事だったんだけれど、その上を、まさか土足でまたげなどと、そんな法外なことを、さも当たり前であるかのような顔をして、なんともないという風情で許してしまうその見知らぬ人の方が、でもきっと一般的なんじゃないかって思う。食べ物に異物が入っているなんて、結構当たり前だし、コンビニのおでんには普通に蛾が飛び込んでいるものだし、寝ている間に蜘蛛を食べちゃったりとかあるだろうし、ハンバーガーに歯が入っていたというニュースだってあったし、だから異物をなんか知らないうちに食べちゃっているということはあると分かっているけれど、なんというか、それはそれで仕方ないんだけれど、より厳密にぼくの恐怖を定義するなら「異物が混入するかもしれない状況を許すことに対する恐怖」なんだと思う。もしかしたら食物に異物が混入するかもしれない、というその状況こそがぼくの恐れであり、またぼくの怒りですらある。異物混入を避ける努力をした上で、それでも髪の毛が入っちゃったとか、そういうのはいい。仕方ないと思う。髪の毛が入っているくらいではぼくは何も言わないし怒らない。ただ一秒に一本毛が抜ける人がいたとして、その人が普通に料理を作っていたら三角巾をかぶってください、お願いします、とお願いすると思う。それは努力すれば防げるかもしれない混入だからだ。こういうのはわがままなのだろうか? それとも多様性なのだろうか? あるいは病気なのだろうか? 病気なのだろうな。ぼくは友人の家に遊びに行って、友人がコップにジュースを注いでくれるのもちょっと嫌なのだ。そのコップ洗わせてください、という気持ちにすごくなる。コップはもちろん洗ってあるんだってわかっている。皿も箸も洗ってあるのだろう。でも気になってしまうのだから仕方ない。一番最悪なのは、喫煙可の居酒屋で、テーブルが狭くて、灰皿を料理の隣に置かざるを得ないような状況の時で、こうなったらもうぼくはほとんどごはんが食べられない。酔っぱらいが持った煙草ほど信用できないものはないし、どれほど注意したところで灰は皿に入っていると思う。ぼくのこの恐怖の根源には、ある程度、教育の影響がある。ぼくは床に食べ物を置かないようにしつけられたし、食べ物をまたぐこともマナー違反であると教育されてきた。それは正しいと思うし、もしぼくに子供ができたらやはり同じように教えるだろうとは思うが、それが大人になってから過度に気になるようになってしまったのがぼく。気になると言えば、食堂で割りばしがいっぱい刺さってるあの筒。あれもめちゃくちゃ気になる。大抵の食堂は、あの筒に割りばしを補充するだけで、筒の方は掃除していないと思う。ぼくは恐怖によって目ざとくなっているので、割りばしが清潔かどうか確かめてから使うのだけれど、一度、筒がガラスのコップのお店があって、そのガラスのコップの底に蠅が死んでいるのを見かけてから、余計にじっくり見るようになった。粉々になった虫の死骸がついた割りばしでみんな、ご飯を食べている。なんか、まあ、それが普通なんだろうけれど、ぼくは嫌だ。そういうのは一度気にし始めるとたくさんみつかる。さくらももこさんのエッセイで、修学旅行先のごはんにコメツキムシがいっぱい入っていて、気持ち悪いなと思ったら横の友達が「ごまだよ」と言って普通に食べていて、さくらさんはそれを迷った末食べたんだったか、それとも空腹のまますごしたんだったか忘れたけれど、そのときの複雑な気持ちがすごくわかる。そういう状況でもっとも気持ち悪いのは「残さずに食べろ」と言ってくる先生だったりするし、「なんで食べないの?」と聞いてくる無邪気な同調圧力だったりする。このあたりの独特の人間の気持ち悪さを今村夏子さんはとても上手に書いている。すっごく気持ち悪いんだけれど、すっごく気持ち悪いということに気づいていない感じの人がわりと多いところが言語化の難しさに繋がっている。潔癖症の人は、こういう思いをずっとしているんだろうなと思う。会社にひとり、潔癖症を持った人がいたけれど、社員共用のマウスはティッシュで包んで使っていたし、キーボードは消毒してから使っていたし、靴を脱いであがる床は、靴下まで脱いで上がっていた。靴下が汚染されるのが嫌だということだった。じゃあ素足は汚染されてもいいのかと思ったけれど、たぶん、仕方ないんだろう。清潔さというものはファンタジーでしかない。人間の顔にだってダニが住んでいる。どうしたって完璧な無菌にはならないし、変なものを食べてしまうことだって偶然あるだろうから、それこそ野人のように、野に落ちている虫の食った果物の食べられるところだけむしって食べるくらいの気概がなければ、生きづらくなるだけなんだろう。