いざというとき

 明日はレンタルバイクの予約をしていた。GB350に乗る予定だった。バイクレンタルはどこもやたら高くて8時間で14000円もする。でもGB350には乗ってみたかったのでそこそこ楽しみにしていた。仕事を終え帰宅して食パンを生のまま食べていると姉からメッセージが届いた。鳥の足がおかしくなったからレンタカーで鳥病院に連れて行ってほしいという連絡だった。ぼくは2分程めんどくさいなあと悩んだ。タクシーで行けばいいのになあと思った。断ろうかなあと思った。2分経って冷静になった。ぼくは断ろうとしている自分が気持ち悪くなった。違うぞ、と思った。全然違うぞ、と思った。姉は移動手段が欲しいわけじゃないだろ。ぼくはレンタルバイクをキャンセルした。前日キャンセルでも料金は発生しなかった。姉の町の近辺のレンタカーを片っ端から検索した。3社調べて空車は一台もなかった。明日の予約では日にちが近すぎるし、しかも日曜日だった。ぼくの町からレンタカーで向かう方向に切り替えた。しかし2社検索して電話もかけてみたけれど空車はなかった。仕方なく姉の町の隣町を検索してみると一台だけプリウスが空いていたので予約した。これからぼくは姉の家に電車で向かう。人生には色々なことが起きる。前触れもなく起きる。おそらく、鳥は近いうちに死ぬだろう。小動物は怪我をするとすごく弱る。しかもうちの鳥はかなり高齢だ。ぼくは姉にチャンスを貰ったのだと思う。生き物が死ぬとぼくはすごくすごく腹が立つ。何年もずっと死というものに対してむかつき続ける。でも、だからこそ、死を隠蔽されるのはもっと嫌だ。ぼくは死に対して慣れたくないし苛立っていたいし、死と向き合いたい。そうでないと死んでいくものに対して失礼だと思う。胸の奥で生き続ける、なんて言葉は呪いでしかない。胸の奥でもきちんで死んでくれ。きちんと生きて、きちんと死んだところを認識させてほしい。いざというとき、ぼくに何ができるだろうかってたまに考える。いつだって今が、いざというときじゃないのか。