ふるえるものたち

 レンタカーを借りた。はじめての経験だった。前にレンタカーを借りた友人と出かけたことがあった。シナリオを知っていたので困ることはなかった。ガソリンスタンドが片手間で運営しているようなレンタカー店で、受付はガソリンスタンドの中の、狭く、散らかった机の上で行われた。水槽が3つ壁際に並んでいて、グッピーがざわめいていた。車にガソリンを入れたり、バックヤードで煙草を吸ったり、マナーの悪い客の悪口を言い合ったりしたあと、この水槽に餌を入れるんだろう、ここの店員さんは。そう考えるとなんだか不思議な感じがした。ガソリンスタンドの魚達。生活の一部に動物が住んでいること。

 小鳥の足は今も恐竜の足だ。鋭い爪も、鱗も、肉球もある。恐竜の足のまま、ぼくの指先にとまり、薄いまぶたを閉じ、小鳥は震えて眠る。バイクのエンジンが震えるように、モルモットの体が震えるように、小鳥のアイドリングは手にはっきりと分かるほど激しく、そしてかよわい。命はいつも震えている。ふるえていないものは、いきていないのかもしれない。

 運転席に座ると少し緊張した。口数が多くなった。余裕があまりない。10年ほど運転していなかった。東京に来てから2度目の運転だった。故郷と比べると、東京の道はあまりにも危険で、わずらわしく、気持ちを削ぐように思っていた。しかし、東京を少し離れると、故郷と大差ない道が続いていた。すぐに運転には慣れた。ぼくはいつも助手席に座ってきたけれど、運転席の方が好きだ。ぼくには運転の適性も、才能もない。でも、運転が好きだ。何が好きなのか考えた。自分の責任で、自分の意思で何かをすることが好きだ。自由の一部を意味していた。

 5時間ほど車をドライブさせて思った。車は移動手段としては正しいけれど面白くはない。バイクは面白い。この差はなんだろう。快適であること、安全であること、正確であること等、乗り物は便利になると面白くなくなるらしいことがわかってきた。危険であるということは、ただそれだけで充分にエンタメになってしまう。たとえばジェットコースターは正真正銘の「どこへも行く事ができない乗り物」だけど、たくさんの人が乗りたがり、乗って楽しみ、そして現代になっても廃れていない。乗り物の危険性だけを抽出した乗り物が人気なのは、危険が楽しいからだ。危険はただそれだけでエンタメとなるからだ。人間の脳もまだ猿のままだった。小鳥の足が恐竜なのと同様に。

 胸にリアルな猫の絵が描いてあるTシャツを買ってトイレで着替えた。今まで着ていた白シャツは丸めて紙袋に入れた。昨日の業務中に着ていた白シャツだった。シャツには仕事が染みついているように感じられた。着ているだけで気が重くなるような、肌にまとわりつく仕事の空気をまとっていた。猫のTシャツが必要だった。ぼくは今までかわいい猫のTシャツを着たいと思った事がなかったし、持っていても着なかったと思う。しかし、今は絶対に猫のTシャツが必要だった。警察官が制服を着るように、自由な時間を過ごすための服がある。

 人は、快楽を得ようとして苦痛に金を払っている事がある。ギャンブル的概念の話。最初はみんな期待に金を払う。必ず負けると分かっているものには金を出さない。勝つかもしれないという期待に金を払う。しかし、期待が裏切られはじめると、今度は失った金を取り戻そうとして金を払うようになる。その段階に至ると、もう期待への快楽はなく、絶望から逃れたい一心で金を払うようになる。ぼくは今日、UFOキャッチャーで絶望している人を見た。怒り、焦り、羞恥、後悔、不安、悲しみ、ありとあらゆる感情に翻弄されながら、それでも100円を入れ続けてしまう人間。そこには明確な教訓があった。これ以上ないほどはっきりした教訓だった。

 再び終電に乗り、今度こそぼくは帰宅する。地下鉄とジェットコースターに、違いなんてないのかもしれない。ギャンブルと人生に、違いなんてないのかもしれない。運転席と助手席に、違いなんてないのかもしれない。全部繋がっているし、全部ばらばらだ。小魚の群れみたいだ。

 白黒のハチワレだった。はっきり見えた。茂みから一直線に飛び出してきた。急ブレーキ。猫は鋭角の軌道で対面の茂みに飛び込んで行った。もしぼくが乗っているのがジェットコースターなら、猫は震えるのをやめていたかもしれない。ぼくは、ぼくの責任で震えていたい。