繊細でデリケートでピーキー

 ありのままを書きますが、メンタルの話なので苦手な人は読まない方がいいと思います。
 
 教習所に通い始めることで、二輪の免許を取得すること以外で期待していたことがひとつある。それはぼくの対人的なメンタルが回復するのではないかという期待だった。最近、振幅が大きかった。三カ月ほどの無職期間を経て再び5年間務めた会社に戻った、その辺りからずっと頭がふわふわしている。ストレスはあるにせよそこまで巨大だというわけでもない。不安・恐怖・緊張も同様。だが何か現実感を欠いたような、離人的な空っぽさが時折際立つ。最低に不調というわけではないにせよ、地に足のついた普通という感じでもない。なんかのバランスが崩れているような感じだけれど、それが何かわからない、そういう不定愁訴。めちゃくちゃ苦しいわけではない、でも喉に魚の小骨が刺さったままのような変な感じ。こういう時、対人能力が著しく低下する。今までこのパターンはあまりなかったのだけれど、最近、人と話すと無条件で冷汗が出るようになってきた。不安や苦痛があるわけではないのに、体が派手に緊張して動悸が激しくなりめちゃくちゃ汗をかく。こういう側面は今までにも確かにあったのだけれど、それがより顕著になっている。
 先日、床屋でこのパターンが発症してものすっごい汗をかきながら髪を切られるという稀な経験をした。床屋の人が「汗、ふきます?」とだけ聞いてタオルを貸してくれた。おそらくぼくのような人間は初めてではないのだろう。淡白に対応してもらってとても助かった。ぼくの見立てでは、おそらくぼくは何らかの適応障害様の状態にある。去年から今年にかけて色々と環境の変化が大きかったので心がどっかでバグったんだと思う。神経質でデリケートな精神の持ち主(運転適性検査より)なので仕方ない。受け止めるしかない。受け止めるしかないというかずっと受け止め続けて来たし、時には回避したり、改善しようとしたり、色々やってきた。
 適応障害の対処法をネットで調べるといつもの認知行動療法が現れる。まるで魔法の言葉のように、いつも認知行動療法が出てくる(ここまで頻出する治療法ならむしろ義務教育に組み込んだ方がいいのではないかとぼくは思う。もうあるかもしれないけれど)。その他には投薬とカウンセリングで、大体どのメンタル故障について調べてもこれらのワードしか出てこない。要するに、メンタルの故障というのはほとんど打つ手がない、のだよな、といつも思う。病気の治療の大半は人間の自然治癒能力にバフをかけるもので、抗生剤や血清みたいに根源から治療する方法ってあまり無いよなあというのがにわかのぼくの現段階での認識だ。ぼくはにわかではあるが、それなりにメンタルについて学んできた。興味からというよりも、必要に迫られて学んできた。なぜ自分はこういう状態にあるのか? ということの根源を知りたいといつも思っている。
 その勉強の中に暴露療法というものがあった。これはストレスを感じるものの中に自ら突っ込んでいって、そしてそのストレスを本当に感じる状態だったか? を評価し、新しい条件付けをすること、だと思う。人前に出ると緊張する、という状態は誤った条件付けがされている状態で、これはパブロフの犬がベルを鳴らしただけでよだれが出るのと同じ状態だ。人前に出るということは本来、ぼくにとってなんら危険の無いものであり、実際には恐れる必要がまったくない。けれどぼくは人前に出ただけで緊張し、発汗する。なぜか? 「人前に出ると緊張する」という条件付け=強い思い込み=ぼくの中の無意識の常識が、ぼくの中で日々増幅し続けるからだ。暴露療法はぼくが緊張する場面で、その不安とか恐怖とか本当に必要か? を評価し、不安が正当なものでないことや、繰り返すことで不安が小さくなっていくことを確認するものである。で、教習所に通うことで人前に出る機会を増やしてぼくは「人前で自ら行動する」という状況に対して耐性をつけようと考えたわけである。もちろんこの行為は正しい医療行為ではなくにわかの希望的願望的行為であることを前提としているが、ある程度の効果はあった。ぼくは入所手続きの時は病的に発汗したが(したんである。振り返ってみると笑えるけど)、技能教習の時はまったく平気だった。ここである程度の切り分けが出来るようになった。ぼくは今「対面で誰かと話す、対面の誰かがぼくを注目する」という状態にやたら負荷を感じるようになっているようだった(床屋もそうだ)。バイクを運転する姿を見られている時などは大して負荷を感じなかった。一対一のお話の状況が無理なのだ。と、まとめながら書いているので「なるほど自分はそういうのが無理なのかあ」と納得すると同時に、その光景を想像するだけで心拍数が上がってきていることにも気づいた。友人や家族、見知った同僚の前ではこの症状は出ない。とても面白い。これ心理学の本で読んだやつだ! の状態になった。これで少なくともドキドキや発汗が正体不明ではなく、限定されたシチュエーションで起きることが分かった。床屋に行くたびになんか汗が出て気持ちわりいなあとなるのが嫌なので、ぼくがこれからするべきなのは、床屋に何回も行くことなのであるが、そんなに髪が伸びるスピードが早くなるわけではないので、もう少し違う方法を考えようと思う。
 という文章を昨日の夜に書いて、今日、床屋に行ってみたら、ぼくは全然汗をかかず、動悸も激しくならなかった。無暗に落ち着いていた。今日はある程度体調が良いらしかった。のだが、どうして体調が良かったのかというと、ぼくが今朝普通に会社に遅刻していったことが原因であると思う。出社定時から2時間後に会社からの着信音で目覚め、うわーもうだめだーとなって髪も洗わず会社に行った(別に誰も怒らなかった。というか朝の当番のうち三人が遅刻してきて現場に一人しかいないというすごいことが起きていた)。その負担がぼくから対人恐怖を一時的にぶっ飛ばしていた。毒をもって毒を制すというか、より強い負担の前には、弱い負担が顔を出すことはなくなるらしい。これもひとつの知見ではある。ぼくの感覚過敏は、そのほかの精神的な負担や深い思考によってある程度抑制することができるらしい。ぼくが気になるものをぼくの前から排除する、という行為ももちろん生きやすさの上では必要になってくるだろうけれど、ストレス源を回避しようとすると恐怖というものはより強化されるもので、そうなるとこれからとても面倒な人生になることが目に見えているので、試行錯誤と休憩を挟みつつ、対人恐怖=適応障害様の症状をなんとか克服しようと考えている。
 と、書いてはみたけれど、こういうことを書くと誤解されそうな気もするけれど、ぼくは対人恐怖=適応障害を、それほど重大なことだと思っていない。程度の差はあれど前からそうだったし、何より、自分の中で敵を大きくしたって意味がないからである。いつか治るんじゃねーのくらいにしか考えていない。そういう風な「適当」が、神経質には一番効く。