愚知

 無知の知もあれば愚知の知もあるんではないか。
 という愚痴。体の芯から疲れている。ぼくは疲れやすい。
 人の3倍は疲れやすい。シャア専用疲れやすい。男だろうが女だろうが子供だろうが年上だろうがぼくよりも体力があることが多い。少なくともぼくの知人は全員ぼくより疲れにくいと思う。
 誰かと一緒にいる時ぼくは2時間程度で体力が底を尽く。何も考えられなくなる。3時間を超えると息が切れはじめる。そして地蔵と成り果てる。
 一度本気で気になって一緒に遊んでいた友人と別れ際に「今どれくらい疲れてる?」と聞いたことがある。ぼくはその時もう一歩も歩けない家に帰りたい寝たいというステータスだったけれど友人は「正直まだ遊べる」という感じだった。悟った。子供の頃からの虚弱体質で家族でデパートなどに行くとぼくは疲れてすぐ家に帰りたがった。ずっと昔の彼女と遊園地に遊びに行った時もぼくは疲れてベンチに座っていた。「疲れた」のレベルが違うんだ、と思い始めた。死ぬほど体力がない。そしてそれは特に対人的な状況によって露出する。一人で山に登るとか20km歩くとかそういうのは出来る。しかし誰かが側にいるというだけで消耗は3倍になる。とにかくめちゃくちゃ疲れている。それでも疲れれば疲れるほど“何かをしなければ”という衝動が増してくる。命が削れるほど燃え上がる謎のど根性が背中を押す。誰も望んでいないど根性をひとしきり発揮しているけれど、その限界ギリギリの行動力が並の人間の普通と同じくらいなのである。書いていて笑っている。そして家に帰る頃には動悸が激しくなり眩暈が激しくなり体の芯から疲れ果てている。休めばいいのに。どうして休まないのか、と自問自答する。愚かだからである。ぼくは自分の愚かさを知っている。愚知の知である。愚の愚かもしれない。
 今日は会社で5時間ほど軽作業をした。軽作業というのは基本的に重労働のことである。軽作業と書いてあるバイトが重労働なのと一緒である。ダンボールをたたむだけの仕事をした。
 本来であれば今日は何も仕事がない日でありぼくにとって不労所得デーだったのだけれど上司がチャットで「Bさんの手伝いしてあげて」と送って来た。Bさんがぼくの横に立って「今からいいですか?」と言った。そこへ別の上司Aが来て三人でケーキを観に行った。ケーキを観に行ったというのは喩えであって、つまりここからは小説である。ケーキが300個届いて、それを上司Aと同僚Pとぼくの三人でダンボールから出して、ケーキは棚へ、ダンボールは潰してまとめて廃棄所へ捨てる、という業務である。とても簡単な誰にでも出来る作業だ。誰にでも出来る作業だけれど、誰にでも出来る作業というのは「誰もやりたくない作業」のことでもある。ぼくはカーディガンを脱いでシャツの袖をまくってIDカードを胸ポケットに突っ込んだ。必ず絶対にめちゃくちゃ疲れると分かりきっていた。上司Aは軽作業のことをよく分かっている人だった。現場タイプの考え方ができる人だった。つまり仕事を始める前の段取りが早く的確であるということだ。段取りというのは仕事以前の仕事である。はじめの一歩である。はじめの一歩で足を挫いているプロジェクトが世の中にはたくさんあると思う。“段取り八分”という言葉もある。工場などには段取りだけの部署もある。段取りとはつまるところシステムなのだ。何をどうすれば効率良く仕事を出来るか考えることが段取りであり、それを考えることが出来る人というのはあんまりいない。ケーキに書かれた番号順の看板をテーブルに貼り置く場所を用意する。ケーキを包んでいる4種類のダンボールを分けて投げる場所を決める。ダンボール内の納品書を入れる箱を用意する。ケーキの解説書を捨てるゴミ袋を用意する。ケーキが崩れないようにそっと取り出す係とひたすらごみを潰す係を分ける。等の割り振りの速度がとても早い。ぼくは上司Aの仕事が好きだ。それから同僚Pの仕事ぶりも素晴らしかった。同僚Pは軽作業の経験がなかった。しかし「どうすればみんなが楽になるか」を動きながら考えられる人だった。ケーキを箱から出す作業は工数が少ないので楽なのだけれど、ダンボールを潰す作業はどんなに急いでも時間がかかる。同僚Pはダンボール潰しに時間がかかることをすぐに理解して、ケーキを出しながら自然とダンボール潰しの工程を先取りし始める。箱の底を留めてあるテープを切っておいてくれるようになったのである。周りが見えているからこういうバランス感覚になる。仲間を助けようという気持ちがあるからアイデアを実施する。とてもいいチームだった。三人で1時間30分かけて100個のケーキを片付けた。上司Aのシステム、同僚Pの戦いの中で成長するスタイル、そしてぼくのダンボール潰しテクニックが三位一体となり、残りの200個もすぐに終わるだろうと思われた。しかしそうはならなかった。上司Aはミーティングに、同僚Pもミーティングに行ってしまったのだった。
「午後からDさんが来るから、使っていいよ」と上司Aは言い残していった。ぼくは突然現場のリーダーとなったのである。そしてぼくは人見知りであり、人見知りを通り越して対人恐怖症であり、知らない人といるとシャア専用疲れる。
 Dさんが来た。Dさんにはケーキを出す係をやってもらった。Dさんはめちゃくちゃ士気が低かった。端的に言って「めちゃくそだるい」という感じだった。ぼくはこの仕事が「誰もやりたがらない仕事」だということをすっかり忘れていた。午前のチームがあまりに強すぎたし、爽快でさえあったため、その印象のまま午後に突入してしまったのだ。Dさんはひたすらのろのろとケーキを出し続けた。ダンボール潰しの工程を先取りしてくれることもなく、ケーキを乱暴に扱い、というかケーキが入ったままのダンボールを投げたりしていた。これが本来の「仕事」の在り方だったのかもしれないな、とぼくは思った。Dさんにとって仕事とは効率でも爽快感でも仲間への思いやりでもなく、ただ言われたことを時間内に終わらせるだけのものであり、ケーキのことなんて知ったことではないのだ。実際「これは俺のケーキじゃないんで、壊れたら壊れたでオッケーす」と言っていた。すがすがしいまでの「仕事」ぶりだ。ぼくは笑ってしまった。人間によってここまで価値観が違う。
 その後、新たにOさんという知らない方が手伝いにきてくれた。Oさんにはダンボールをカッターで切って解説書入れを10個作ってくださいとお願いした。Oさんは30分かけて2個しか解説書入れを作れなかった。2個ダンボールを切って、Oさんは帰った。ダンボールの四面をまっすぐ切るだけの簡単なお仕事を振ったつもりだったのだけれど、でも成果が出ない。マジかあと思った。マジ……かあ……と思った。たぶん、ぶきっちょだったんだと思う。今時ぶきっちょって言葉を使うのはラッドウィンプスだけなんだけど、ぶきっちょだったから時間がかかっただけなんだろうと思う。決してサボろうとか思っていたわけではないんだと思う。ぼくはそう思いたい。Oさんはいい人そうだったから、そう思いたい。この辺でぼくの疲弊はすでに上限ぎりぎりになっていた。ぼくはOさんが切り残したダンボールで解説書入れを4個作って、4種類のダンボールを仕分けし、潰し、畳んで紐でしばり、ガムテープで留め、台車に乗せ、ひとりだけ滝のような汗を流しながら仕事を続けた。知らない人のNさんが助けに来てくれた。Nさんは解説書入れを20分で2個作って帰った。だんだんどうでもよくなってきた。一体ぼくはなぜ頑張っているのか。どうしてひとりだけ死ぬほど汗をかいているのか、もうわからなくなっていた。ぼくは意味もなくほほえんでいた。疲れすぎて表情がおかしかった。ぼくはひとりだけマスクもしていなかった。息が切れて倒れそうだったからだ。眩暈が激しくなって足がふらついたりもした。しかしぼくは頑張った。なぜ頑張っているのか、頑張る必要は全然まったく無いのに。今日中に終わらせられれば最高だけれど、今日中に終わらせなくてもいい仕事である。猶予はあるのである。なぜ必死になっているのか。何か心の病気なのではないか。なんでこんなに一生懸命なのか、メロスなのか、セリヌンティウスのいないメロスなのか、もはや何もわからない。褒められたいわけじゃない。怒られそうなわけでもない。ただこのケーキを残しておくのがなんか嫌だったからだ。なんか嫌だからという理由で「汗やばいっすね」と言われるほどしゃかりきになっているぼくは、やはり愚の愚だったのかもしれない。
 同僚Pが30分だけ手伝ってくれたり、同僚Kがすばらしいアイデアを出して作業してくれたり、結果として30分の残業までしてケーキはすべて片付けることができた。ぼくは疲れ果てた。疲れて何も考えられなくなって会社を出た。電車の中で立ちながら眠り、ふらふらになって帰宅し、顔を洗って歯を磨いて10分だけベッドで横になり、そして意味不明なド根性で予約していた歯医者に行った。ものすごくハードな一日だった。もう倒れそうだし、ちょっと吐きそうだ。そして2時間かけてこの文章を書いている。どうしてぼくはこんなに愚かしいのか。そして愚かしさを続けているのか。暴君ディオニスがぼくで、セリヌンがぼくで、メロスがぼくで、自業自得に走り続けることで小学5年生の夏休みのぼくを黙らせようとしているのかもしれない。
 なんにもない人生になるだろう。と思い込んでいたぼくを。