この痛みには名前がある

 あらゆる物に名前があるの、わりと好きです。
 たとえば、ぼくにはゆびがある。
 ゆびの先には爪がある。
 そして爪がゆびにくっついているところに、ハイポキニウムがある。
 ハイポキニウム!? となる。
 突然、聞いたことのない名前が現れる。
「そんな変なものはわたしの体にはない」と思う人がいるかもしれない。
 でもたいがいの人にはハイポキニウムがある。
 名前を知らないだけで、きちんとある。
 ファニーボーンもランゲルハンス島も盆の窪もある。
 
 名前を知るということは、その存在を知ることでもある。
 逆に言うと、名前がないものは認識が難しい。
 たとえば「雨が降ったときの匂い」は、感じる人と感じない人がいると思う。
 感じないという人は、嗅覚が鈍いというわけではなく、おそらく匂いを感じていても認識できていないだけなのだと思う。
 ハイポキニウムという名前を知らない時には、体にはハイポキニウムがないように感じられる。
 しかし名前を聞いた途端に、その存在をはっきりと認識できるようになる。
 ダイナミックな価値観の転換が行われる。
 雨が降ったときの匂いの名前は「〇〇〇〇〇〇」というらしい。
 価値観の転換は自己責任です。
 一度名前を聞いてしまえば、もう認識から逃れられなくなる。
 認識は不可逆なシステムだ。
 
 靴を履くとき、つま先を床にとんとんする人がいる。
「ルルベステップ」という名前がある。
 クラシックバレエの、つま先で立つテクニックが語源だ。
 ぼくがいま考えた。
 優雅な感じがするでしょう。
 
 真夜中に、左足の親指がじんわり痛み、目覚めた。
 脈打つような弱い鈍痛が断続的に続いている。
 気にせず寝ていたけれど、不意にこの痛みにも名前があることに気がついた。
 はじめに現象があり、それに名前がついていることに、ぼくはすこし感動した。
 名前があるということは、この痛みをどこかの誰かがすでに感じていたということだから。
 この現象を解決する方法がどこかにあるかもしれないということだから。
 痛みを名前で認識したあとは、すぐに対策をしたので、今はもう痛くない。
 名前を知るだけで、救われることがある。