読書感想文を殺してぼくも死ぬ

 死は万人に平等に訪れる。人生は有限だ。やりたくないことに時間を割いている暇はない。――たまに見かける素敵なポジティブ言葉に、ぼくも深く共感する。楽しい時間だけを過ごしてゆきたいと心から願っている。しかし、それが出来たら苦労しない、とも思う。人生はそう甘くはない。やりたくないことも、やらなくてはならない時がある。たとえば、読書感想文を書くとか。
 
 中学生の頃のぼくは、おそらく当時の日本の「読書感想文が嫌いな少年全国大会」の上位100位に入れるくらいには読書感想文が嫌いだった。はっきりと憎悪していた。読書感想文を粉砕打破するためのテロ組織があったら迷わず加入しただろう。読書感想文という存在そのものがぼくという人間を全否定しているようにさえ感じていた。絶対に書きたくなかった。でも書かざるをえなかった。ぼくは「読書感想文が嫌いだけど真面目な少年全国大会」の上位100位に入れるくらい真面目でもあったからだ。
 絶対にやりたくないことを、それでもやらなくてはいけない。この葛藤、アンヴィバレンスに引き裂かれる心。ぼくは読書感想文という言葉を聞くだけで身体に不調が現れるようになった。おそらく人生ではじめて胃痛というものを感じたは、中学二年の夏休みの最後の日の、まだ真っ白な原稿用紙に向かって脂汗を流しながら鉛筆をへし折らんばかりに握りしめていたあの日だろう。部屋の机に向かって目を血走らせながら居並ぶ方眼を睨みつけて何時間が経過しただろうか。どうしてもどれだけ考えても「おもしろかったです」しか言葉が出てこない。本当は面白いとさえ思っていなかったのだけれど、その時のぼくの読書感想文用の語彙は「おもしろかったです」しかなかった。「おもしろかったです」でいいじゃないかと思った。だって「感想文」なんだから、感想を書くものなんだから、「おもしろかったです」しか思わなかったなら、それがぼくの感想なのだから、それでいいじゃないか。駄目とは言わせない。もしそれがルール違反だというなら読書褒め称え文とか、読書学んだ事文とか、そういう目的に合った名前にするべきであって断じて感想文などという曖昧な名前にしていいはずがない。ぼくの感想は「おもしろかったです」だ。と思って小学三年生くらいのころ、原稿用紙に三行くらいの読書感想文を書いて出したら担任の先生にやんわり叱られたことを思い出す。ルール、ルール、ルール! 原稿用紙三枚分のくだらないルール! これはやっぱり読書感想文なんかではない、読書ルール文だ。誰かが決めた、誰かが望んだ、誰かがぼくたちに刷り込もうとしているルールでマス目を埋めるだけのくだらない作業をどうしてこんなに苦痛を感じながらやらなくてはならないのか。怒りで目の前が真っ白になってきた。震えてきた。動悸が激しいし吐きそうだ。しかし書かないと先生に叱られる。教室のみんなに笑われる。国語の点数が低くなってお母さんをがっかりさせる。小学生レベルの読書感想文すら書くことができない落ちこぼれとしてぼくは学校でいじめられそれを苦にして自殺する。もしかしてぼくは何かの病気なのではないか、文字を読むことができない人がいるように、読書感想文を書くことができない人だっているはずじゃないか。ふざけるな、いや頑張ろう、もう駄目だ時間もない、いやただ文字を書けばいいだけじゃん、書くことが思いつかない、吐きそうだ、怒られたくない……長時間に及ぶ精神的苦痛に伴う身体的不調によって消耗しきったぼくは、放心状態になりながら、まったく何も考えられない廃人の様相で居間に向かった。居間ではお母さんがソファーに寝転がってテレビを見ていた。お父さんは酒を飲みながら新聞を読んでいた。ぼくはお母さんに「読書感想文が書けない」と言った。恥も外聞もなく、中学二年生のプライドや反抗心さえもとうに擦り切れたSOSだった。お母さんは「思ったこと書けばいいじゃない」と、テレビから目も離さずに言った。「なにも思わない」と自嘲しながらぼくは言った。その時お母さんはぼくを見た。その瞬間にお母さんは何かを察知した。そしておそらく次の瞬間には覚悟を決めていた。「ばか、あんたが好きなように書けばいいのよ。何書いたっていいんだから」とお母さんは言った。ぼくは死ぬほど追い詰められていたので、震える声で「でも好きに書いたら先生に怒られるかもしれない」と言った。「いいじゃないの。あんたが怒られたらあたしが先生に言ってやる。学校に入っていって、何が悪いのって言ってやるから」とお母さんは言った。ぼくは泣きそうになった。ありがたかった、心強かった。味方がここにひとりでもいるんだと思った。お母さんが先生に文句を言ってくれるかどうかなんてどうでもいいことだし、本気で文句を言いに来たら止めるけど、そういう問題ではない。ぼくはただお母さんに励まされ、お母さんがぼくのレベルまで降りてきて話してくれたことがうれしかった。ぼくは読書感想文を殺そうと思った。読書感想文を殺してぼくも死のうと思った。もう二度と教師が子供たちに読書感想文を求めたりしないように読書感想文をここで終わらせようと思った。ありったけの殺意と怒りを読書感想文に込めようと思った。先生を再起不能なまでに傷つけようと思った。解放だ。ぼくは教室の教壇の前に立たされて叱られるかもしれない。笑われるかもしれない。けれどもうそれでいい。たったひとりの味方がそれをしてもいいと言ってくれたから、ぼくはそれをやる。部屋に戻って筆圧強めの文字を原稿用紙に叩きつけた。ルールなんてない。好きに書くのが読書感想文だ。日本語がぶっ壊れてようが気持ち悪い感性をしていようが構うことはない。ぼくはそれを書く。それなら書ける。むしろ、書かなければならない。最後の一文字を書き終わって鉛筆を放り出して布団に入って寝た。登校して先生に読書感想文を提出した。爆発しろとぼくは思った。

 何日かが過ぎて、先生がぼくの名を読んだ。お昼休みの喧騒の中、ぼくは先生の元へ向かった。「読書感想文のことだけど」と先生は言った。ついにこの日が来た、と思った。やってやる。何を言われてもぼくは戦う。読書感想文を完全に破壊してやる。そしてぼくも死ぬ。「あれ面白かったから、みんなに配っていい?」と先生は言った。「あ、はい」とぼくは言った。ひどく混乱していた。先生はまったく傷ついていなかった。読書感想文も死ななかったし、ぼくも死ななかった。お母さんは学校に殴り込みに来なかった。ぼくの読書感想文はコピーされ、国語の授業の時にクラスに配られた。クラスのみんなが笑った。でもそれは馬鹿にした笑いではなかった。楽しそうに笑っていた。授業のあと、クラスメイトの女子が寄ってきて「あんたすごいね、どうやったらあんなの書けんの」と言った。ぼくは赤面してめまいがして何か適当なことを言った。説明なんてできなかった。死ぬほど追い詰められて吐き気と胃痛を抱えながらお母さんに泣きついて誇大妄想に憑りつかれてやけくその半狂乱になって死ぬつもりで書いたんだよ、なんて、口が裂けても言えない。

 やる気が出ない時、ふたつの選択肢がある。やるか、やらないかだ。やらないと決めたら、やらなくてもいいと思う。それはそれで学ぶこともある。でも、やると決めたらあらゆる犠牲を払って戦うしかない。何かが変わるかもしれないって信じて、突き進む以外にはない。どんな選択であれ、その先に何が待っているのかなんて、誰にもわからないのだから。
 
 

今週のお題「やる気が出ないときの◯◯」