くるくる

 目覚める。すぐに町田康を読む。1990年代。ぼくの文芸ルーツを適当に探っている。大槻ケンヂ中島らも太宰治ブコウスキー小林泰三滝本竜彦秋山瑞人。なるほどぼくの趣味に合う文章が何故今無いのかが分かった気がした。ニルヴァーナもアリスインチェインズも90年代。あの頃の雰囲気が戻ってこないかなとか考えてFC2のランキングとか話題の記事とかをぱらぱらと見るとまだ生き残っていた魂から声があふれてるみたいな、自我と自意識とが爆発しているような記事のなつかしい衝動。ZORNさんを聴いてみる。声が聴きやすいしレぺゼン感がヒップホップっぽくていい。“一生お前はそれを誇りにして生きていくんだろ?”ってバキ童さんに晋平太さんが言っていたの、あの言葉はすばらしかったよな。窓際で電子煙草を吸いながら紅茶を飲み読書をする眼下には無数の車列眼前にも無数の車列いつも変わらない喧騒この景色は実家の窓から見えた朽ちた沼よりよほど生きている。ゲームの体験版をインストールしてすぐに飽きる。新しいゲームという響きは新しい人生と全く同じ意味を持っていて輪廻するたび少しずつ何かを削られながらそれでも積み重なっていく一分一秒がぼくの背中を押し続ける。相も変わらず『へらへらぼっちゃん』が面白い。まるで読み終わらないけれど読みづらいわけではなくむしろ敬愛している作家さんではあるが、なににせよこの方の唯一無二の文体を愛する。SMOKの雑談を見ながら絵を描いた。SMOKの力の抜けまくった雑談はどんなシチュエーションにもはまってラジオみたいで、あまりに力が抜けすぎてラインを超えた発言に気分を害するメンバーのリアクションとかが若干不安になるもののファミレスで話している友達同士のなんとなく面白い会話がとなりから聞こえてくるみたいな雰囲気はうららかな午後にぴったりではある。絵は楽しく描いた。絵はいつも楽しい。スマホエヴァ―ノートのソフトウェア更新を行ったら再ログインを求められログイン情報を覚えられないのでわざわざパソコンの秘密ファイルを開いて調べ直し再ログインをした。エヴァ―ノートは今や完全にぼくの日記帳で、昨日の夜散歩に行った時の感想が「深夜、誰もいないコンビニのきれいさ」だった。誰もいないコンビニは宝石の無いショーケースみたいにきらきらしていて比喩的だった。部屋の掃除をしたら部屋が広くなった。指先が冷たくなった。部屋で過ごす時間が増すたび部屋は狭くなる。現実的な容量の面にしても、精神的な容量にしても。同じ場所に居続けることは世界を狭くする。刑務所に長く入った方は自由を恐れる。突然電話が鳴ってそのときぼくはパスタを茹でていなかった。小物の絵の描き方を調べているところでぎょっとして携帯電話を5秒くらい見つめ、そして覚悟して電話に出、世界で一番めんどくさいやりとりをした。部屋の中をうろつきながら声を出す。声を出す機会がずいぶん減っているから会話を司る脳の機能が退化して核心を突く槍の言葉の一撃が重い。文章を書くようにひとりで、ひとりで声を出した方がいいのだろうってずっとひとりで思っているけれどそれがなかなか上手くいかないのは結局自分自身の声がひとりで嫌いだから、というよりもむしろ声に出すことが面倒だからだし、声に出すよりも「書く方が楽だから」なんじゃないかとか思って、でもしゃべることは生活に必要だからリハビリみたいな感じで面白いギャグとかをぶつぶつ呟く自動ロボットになることがぼくの今日の理想です。姉から予告通りの荷物が届いて箱一杯のフィギュアで、新しく追加した三台の本棚の上にはもうすでに必要のない装飾的な、衝動で買ってしまっただけのフィギュアやぬいぐるみがひしめいて、新しい物を置くスペースなどほぼなかったけれど詰めに詰めて混沌を拡大していた。無数のフィギュア。人の形、猫の形、猿の形、怪物の形、でも、とぼくは考えた。人に貰ったものってすごく捨てにくい。それが人の形をしていたらなおさら。それが人の手を介したものならなお。ぼくはもしかして人にあげたいと思うものを食品に限定すべきなんじゃないか。というよりも、お金のような、何かの代用品というか、トークンみたいな、何かを意味するエンブレムみたいなものがあれば便利なのになと思う。「これは友情のトークンだ」と渡して、もうそれでいいような気もするけれど、本物の亀をあげるのが難しいからぬいぐるみの亀を渡すのか。じゃあぬいぐるみは最初から比喩だ。