この味は冬の天の川

 風呂に入る時には必ず読むものか電子タブレットを持参し余剰時間の消費に努める現代人。一刻を争う気分であらゆる作品群をちぎっては食べちぎっては食べまるで巨大なフランスパンの横腹に穴を開け深く潜航していくような、きっとゼペット老人も鯨の腹の中で本を読んでいたりしたのか。読書をする時は人生が止まっている時である、みたいなことを書いていたのは誰だったか、病室や友達のいない夏休みに物語を住処として夢想へ飛翔する日々は馴染み深く、孤独や静寂と読書の相性は木漏れ日とハンモック。ピザとコーラ。ボブ・マーリーとドレッドヘア。勇者と伝説の剣。無職と私。風呂の中で読書をしていると必ず目の球が燃えるように痛み、熱と湯気と汗等の刺激によって眼球にスリップダメージが発生している、目を擦りながら活字と格闘するリラックスとは程遠い好きな時。世間の平均入浴時間は25分程度らしいと最近知ったのだけれど、私の平均入浴時間は「湯が水になるまで」であって、書いててばかばかしくなりほくそ笑んでしまい、ひとりでほくそ笑んでいる気味の悪い人間が私は嫌いなので死にたくなった。こったら馬鹿がかったことを書きたかったわけではなく、風呂の中で音読をしたよ。ということを書きたく思ったのだけれどね、風呂の中でひたすら早口で音読しているとだんだんリズムや抑揚がお祭りみたいになってきてイキったポエトリーリーディングみたいなドライヴ感が思いのほか心を躍動させたのでべらべらしてたらいつもは無音の排気扇からうんががががががと奇妙なドリルのような音が突然鳴り響いて、私は意味もなく神の存在などについて考えさせられたのだった。橙の照明の下の湯気の静けさ。その後、風呂上がりの各種儀式を早々に終え部屋を出ると外はオニキスの夜。うつくしい澄んだ邪気のない夜気を胸いっぱいに吸い込むと割と排気ガスの香りがして空気までがアーバンな東京。夜の都会は切ないけれど孤独の密度が不足してて、ゴーストやモンスターのなつかしい影を路地裏や灯りの消えた廃墟の奥に探している。期待している。スーパーマーケットで買うものはいつも同じで、駐車場の前にいるおじいさんの警備員もいつも同じだった。今回違ったものと言えば、いつもはカントリーマアムを買うところをルマンドにしたくらいで、あとはそっくりそのままその日暮らしの質素な質より量の粗食を旨とした食にあんまり興味のなさそうなラインナップでにわかに恥じらう。手持ちのエコバッグ二枚をさっと広げて食品を袋詰めする。帰宅して遅めの夕食とした時、いまさら感受したのではあるが、サラダドレッシングが精霊的にうまい。すこし異常。以前から美味がかっているとは思っていたけれど、よく考えてみるとこんなにうまい食物は他にちょっと無いんじゃないの。和風ドレッシングが私は好きなんですが、胡麻ドレッシングも同じように尋常ならざるうまさだと思う。イタリアンもシーザーも全部、どんな高価な美酒よりもまずうまい。果汁百パーセント搾りたて林檎ジュースよりもうまい。ドレッシングをそのまま飲んでみたらどうかという不埒な考えが頭をよぎったが、その行いはきっとドレッシングを傷つける。これは単純に倫理観の問題だと思う。ドレッシングはそのまま飲まれるために生まれてきたわけではない。味の薄いものをよりおいしく引き立てるために生まれてきた。法を破って直接ドレッシングを飲んだりしたら、きっとドレッシングは自らの存在意義について考え、苦悩し、自分は本当にドレッシングなのだろうかと永遠の問いを発し続ける。もしそうなれば、私は私を許すことができないだろう。想像してたら死にたくなってきた。サラダそしてやきそば弁当を食べ終え食後にココアを鯨飲後、私は外へ飛び出した。長い長い夜の国道を歩いてなんとなく飲み屋が集合した有名な町の近くに出、オレンジ色の照明の木造っぽい雰囲気の居酒屋の前を通りかかった時、建物と人とに染み込んだ酒と肴の悪臭が鼻をついて幾万の思い出、憎悪、悔恨、恋慕、寂寞、狂気、衝動、友情、創造、そして虚無がすべていっぺんに再生され脳が思い出をODする。匂いを嗅いだだけで私はもう酒のことがこんなにも嫌いだった。胸いっぱいに爽やかな嫌気がさす。うまいものを食べよう。それからおいしいジュースやお茶を飲もう。旅に出よう。本を読もう。ゲームをしよう。酒が関わるとあらゆる物事が悪化する。私が胸を張って言える唯一の真実だ。帰り道、暗い花屋の隣に煌々と灯る自販機でコーンポタージュを買った。あたたかかった。プルタブをプルってポタージュを飲んでみると、この味は冬の天の川。
 生きたくなった。