まあいいか

「まあいいか」を練習している。
 何度やってもうまく出来ない。
 私は考えすぎる。くよくよしすぎる。
 ちいさな事でひどく疲れる。ため息ばかりついている。左のまぶたが痙攣している。
 腹の奥の筋肉が奇妙に収縮して重くなる。ストレスで髪の毛が逆立つ。
 トイレに行く。鏡に映った顔はゾンビのように頬が削げている。目がくぼんでいる。
「疲れた顔してますねぇ」とSさんが笑って言う。私も笑う。笑いながら吐き気をこらえている。
 スキューバダイビングに行った時もそうだった。インストラクターのおじさんが私の顔を見た。
「疲れてますねぇ」と言って笑っていた。私も笑う。笑いながらすこし傷ついている。
 すこし傷ついているのでそのことを忘れない。もう1年ほど前のことだけれど覚えている。
「まあいいか、って大抵のことで思いますね、私は」とOさんは言った。うらやましい、とさえ思えなかった。あまりに言葉が遠すぎて。価値観が違いすぎて。性格が噛み合わなすぎて。
 だから私はOさんが嫌いではないのだが。だから私はOさんの言葉を覚えているわけなのだが。
「まあいいか」その言葉を体が覚えたら、少しは楽に生きられるのだろうか。
 と思う。と、思わざるをえない。と思いたい。と、希望している。
 そして今もまだ、その言葉を練習してみている。まあいいか、まあいいさ、まあいいよ。
 まあいいか? まあ、いいか。まあ、いいのか。まあ、いいのかな。まあ。まあ。
 練習するたびに「まあいいか」は遠くなっていく。まあいいかは、練習するものではない気がしている。
 シャワーを浴びながらフラッシュバックを浴びている。すかさずまあいいか! 唱えると20gくらい心が軽くなる。しかしまもなく蘇った思いによって質量は補填される。
 まあいいか、が効かなかった負の実績が積みあがる。私は学習してしまう。言葉の無力さを。
 まあいいか、では何も解決しなかった。まあいいか、は効かない。まあいいかは、だめだ。
 まあいいかでは、私を救えない。
 
 まあいいかを考え過ぎてはいないか? ある時不意に気がつく。
 まあいいかという言葉は、その概念は、本質は、思考や感情の放逐。手放すこと。ワープ装置だ。
 私はまあいいかに思考・感情を放り込む。使い方は正しい。しかしその直後、私は後天的に獲得した自己観察術によって自らの思考・感情の変化をつぶさに記憶してしまう。
 まあいいかによって、自分にどの程度の変化があったかな? その観察の過程で、捨てたはずの感情を手繰り寄せてしまっている。ゼロカロリーコーラに砂糖を入れて飲んでいる。
 まあいいか、と唱えたら即、感情・思考は燃焼、成仏し、一切合切の痕跡を残さず潰える。それがまあいいかの極意なのではないか。まあいいかを心から信じること。そしてまあいいかと唱える時、その対象がいかに重要で大切で稀有なものであっても、潔く虚空へ放り込む事。こころを残さぬこと。断ち切ること。燃やし尽くすこと。振り返らぬこと。真のまあいいかとは、そのようなものなのではないか。断じて気休め程度の言葉ではない。まあいいかという言葉は、決意の表明であり、同時に自己への命令でもあり、自己催眠でさえあるのだ。まあいいかを修得するということは、究極的には悟りの境地へ至ることなのだ。この世のすべてから解き放たれること、未練を、煩悩を、雑念を、我執を捨て去ることなのだ。まあいいかは、世界と向き合うための最も初歩的な態度であり、ある意味では最終到達点でさえあるのだ。うんわかっているめちゃくちゃ考えすぎている。
 こういうことを考えているようでは、いつまで経ってもまあいいかをうまく使えない。
 
 私は恥を忍んで師・Oさんに尋ねることにした。
「Oさん、この間、まあいいかについて話しましたよね」
 Oさんは私の顔をまん丸の目でじっと見つめ、それからほほ笑んだ。
「えーと、それなんでしたっけ?」
 後光。
 まあいいかを完成させたその人は、おおらかに、私の言葉を待っていた。

 

 

 

 

今週のお題「練習していること」