寝ている。寝て起きる。ベッドの上に起き上がる。座っている。
私は夢を見ていたかもしれない。見ていないかもしれない。
時々は金縛りに遭っていたかもしれない。遭っていないかもしれない。
私はその時、地球は回っている。と考えない。考えなくても地球は回っている。鳥は眠っている。寝て起きる。木の棒の上で起きている。静かにしわくちゃのまぶたを開く。瞳に差す一条の朝陽。
蟻は眠るだろうか。蟻は眠っている。死んだように眠っている。巣穴の中で目覚める。真っ暗な穴。永遠のような回廊の中で目覚める。寂しくはない。仲間の気配が私を取り巻いている。蟻は息をするだろうか。蟻は息をする。とてもとても静かに息をする。人間には聞こえないほど静かに。しかし蟻には聞こえるほど大きく息をする。
ピーナッツの原産地は中国。中国の少女はベッドの上に起きる。寝て起きる。座っている。彼女は夢を見ていた。異国のバタピーの夢を見ていた。バタピーは、バタピーという名前の割にはバターが使われていない。バターが使われていた時代は終わったのだ。バタピーという名前だけが残った。言葉だけが残る。大豆、起きなさい……デイジー! 姉の呼ぶ声が聞こえる。私はバタピーの夢を見ていた。その夢の国ではピーナッツをバタピーと呼んでいた。バタピーはお金さえ出せばいつでも手に入る。私は花生をそのように手に入れたことはない。デイジー、笑っているのね。姉が豆殻茶のポットを持って現れた。いい香りが漂っている。姉さん、夢を見たのよ。ここではない遠い国の夢を。そこでは花生はバタピーと呼ばれている。そして誰でも簡単に食べることができる。ほんのわずかなお金を支払うだけで、奪い合うことなく、とても平和に。そうね、いつかそんな日が来るといいね。姉はポットを床に置いて私を抱きしめる。私はあたたかい。姉はあたたかい。目覚めたばかりの鳥が朝陽の歌を歌っている。風を呼ぶ声。花開く声。外で鐘が鳴る。何度も何度も鳴る。姉は私の目をまっすぐにみつめる。私は姉の深い黒の瞳をみつめる。まっすぐにみつめる。行きましょうデイジー、やつらがやって来たのよ。わかったわ姉さん。私たちはあたたかい豆殻茶を飲むことができない。それはきっととても冷たくなってしまう。あるいはもう二度とお茶を飲むことはないのかもしれない。私と姉さんは木の胴当てを下げ、その上に分厚い鹿皮の外套を羽織る。寝台の下から小銃を引きずり出す。鐘は鳴りやまない。革靴に足を詰め込んで玄関の引き戸を開けると隣のおじさんとおばさんが西の門へ駆けていくのが見えた。その後ろを楊がついていく。
ところでピーナッツの華は何色だろうか。落花生の、落ちる花は何色だろうか。私は花生の花の色をまだ知らない。ピーナッツの花にも花言葉があるのだろうか。私はピーナッツのことを何も知らない。知らないことは想像することができる。知らないことを知らないままにしておくことができる。知ってしまえば想像することはできない。知ってしまえば思い出すことしかできない。それなら調べたりしなくてもいいのかもしれない。私は事実だけを愛しているわけではない。赤い花が咲いていればいいと思う。赤い大きな花が。
デイジー! 紅豆! 椰果一家が来たのよ! 殺してやる! イェンは私達に向かって叫ぶ。楊が手に持っているのはとても小さな果物刃だった。杀! と姉も叫ぶ。殺してやる! と私も叫ぶ。私たちは誰かを殺して自分たちが生き延びることを肯定しなければならない。そうしなければただ死ぬのを待つだけだから。村の真ん中の大路を村中の人間が駆けて行く。人間が走る音と息遣いが白い朝に木霊している。身に着けたがらくたの揺れる不協和音が響き渡る。鐘の音が一定のリズムで私たちへ走るように命じている。地面が揺れているようだ。もう鳥は朝陽の歌を歌わない。彼らはどこか遠くの光の差す場所へ飛んで行ってしまった。枯れた風が吹き渡る。花は顔を背ける。犬が吠える。犬が吠えている。叫びすぎて変な声になっている。村を取り囲む山は真っ赤に染まっている。真っ赤な布が山を覆っているようだった。それは花の色だ。私たちが守らなくてはならない花の色だ。それは私たちの血の色だ。西の門の脇に並べた木箱の影にみんなが隠れている。私と姉の人の隙間に体を捻じり込んで隠れる。鐘の音はどんどん早くなる。近づいている。椰果一家は私たちから奪おうとしている。私たちを殺そうとしている。本当にそうなのだろうか。本当に彼らは私たちを殺そうとしているのだろうか。ただ話し合いをしたいだけではないのだろうか。すこしだけピーナッツを分けてほしいと言いに来ただけではないのだろうか。もしかしたら、今日だけはそうなのではないのだろうか。もし彼らがきちんとお願いをしたら、私たちはどうするのだろうか。それでも椰果一家を殺すのだろうか。それともすこしだけピーナッツを分け与えるのだろうか。でも次の日にもっとたくさんのピーナッツをくれと言ってくるかもしれない。その次にはもっと、もっとたくさんのピーナッツをくれと言ってくるかもしれない。私たちの食べる分が無くなってしまったら、その時にはどうすればいいのだろうか。私たちは何を食べて生きていけばいいのだろうか。大丈夫よデイジー。姉はほほ笑んだ。大丈夫よデイジー、やつらは根性なしよ。すぐに引き返すわ。豆殻茶が冷める前に家に帰れるわよ。姉はほほ笑む。そしてほほえみながら横にゆっくりと倒れる。左半身を地面に打ち付ける。姉はほほ笑んでいる。頭の右から少しだけ血が出ている。その反対側からは花が溢れている。白い土の上に姉の中身が広がっていく。姉は鳥のところへ行ったのだ。どこか遠くの光の差す場所へ。私は木箱の上に顔を出した。遠くの丘の上に数人の椰果一家が立っている。彼らは自分たちの銃弾が私たちに当たるなんて思っていない。適当に撃っているだけだ。彼らは私たちの銃弾が彼らに当たるとも思っていない。彼らは隙をうかがっているだけなのだ。彼らは自分たちがどれほど勇敢な戦士であるかを示したいだけなのだ。犬が吠えている。大豆! だめ! 楊が叫んだ。私は木箱を飛び越えて丘に向かって走った。犬が吠えている。殺してやる。でもどうして私は殺さなくてはならないのだろうか。銃弾が足元の土をえぐる。するどい風切り音を伴って頭をかすめる。でも私は死なない。私は死なない。私は死ぬ役割ではない。私は殺すのだ。私は殺そう。丘の上の幾人かが逃げていく。やつらは根性なしだ。私は小銃のボルトを引き薬室に銃弾を装填する。安全装置を外す。片膝を立ててしゃがむ。残った一人に銃を向ける。照準を合わせる。照星の向こうでたしかに彼がたじろいだのが分かった。私は引き金を引いた。ずっと犬が吠えている。デイジー、帰ろう。椰果一家はもういないよ。後ろから楊の声がした。夢を見たのよ。と私は言った。その世界では、ピーナッツのことをバタピーって呼ぶの。
私はそのようにしてピーナッツが収穫されていると思う。バタピーを食べている。これはデイジーが守った豆……と思いながら食べている。だんだん涙が溢れてきた。自分で想像したことに自分で泣いているっていうのは、つまりどういうことなのだろうか。その昔、すごくおアホな男子中学生の友人がいた。男子中学生というのは私を除いてみんなすごくおアホだった。私はその頃から頭脳明晰眉目秀麗天上天下唯我独尊だったから男子中学生ではなかったかもしれない。私は私だった。男子中学生の友人がいて、彼はおアホだったがとてもとてもクリエイティブ的な哲学的なことを言った。なあ、もし自分でエロ本を描いたとしたら、それってエロいと思う? 私は笑えなかった。私はその言葉に恐怖さえ感じた。それは根源的な問だった。存在意義を問われているような気がした。それはメタフィジカルな問だった。もし自作エロ本をエロいと思えるならそれは間違いなくエロ本として高い価値を持っているだろうけれど、書いたのは自分なのでそもそもエロいとか思えないような気がした。むしろ気持ち悪くなるんじゃないかと思われた。けれど、もしエロいと思えないとしたら、それはエロ本ではない。エロくないエロ本というのは、つまり一体なんだろう? その時、私は何を生み出したことになるんだろう? 大人になった私ならそれの答えが分かる。私は昔より、子供の頃よりずっと成長し、心が豊かになり、感情を知り、人間として多くの経験を積み、情緒豊かになったから分かった。私は自分のエロ本をエロいと思える。エロくしようと思ってエロく描き、そのうえでエロいと思える。そのような完全無欠な、方法と結果が完全一致すること、できることが分かっている。自分が描いたからとか、自分で内容が分かっているからとか、そういう前提はあまり関係が無い。自分で書いたものを自分で喜ぶということは、自然なことだった。たぶんスパティフィラムが花咲いた時、その花をスパティフィラムは誇っている。蝉は鳴くとき快感を感じるらしい。鳥が美しい声で鳴くとき、きっと自分の声をうつくしいと思うだろう。それはうぬぼれとかそういうレベルではなくもっと根源的な簡単な自己肯定だ。はじめて自転車に乗れた時のうれしさだ。おいしいものをおいしいと思う味覚だ。すごく低レイヤーの反射的な反応だ。ということを私は書いていた。書きながら考えていた。
私には考える習慣があり、とてもよく色々なことを考えているが、それが社会的な価値があるかというと別にない。別にないことを考えるのが好きだし、それが習慣になっていて、考えていない時間はほとんどない。考えまくっているので吐きそうだ。そういう時にはゲームをしたりバイクに乗ったりすると、考えることは考えるけれど考えることが波ではなく一本の糸になる。そのシンプルにまとまった思考回路をどうにか取り出そうとしている。ひとつのことに集中できるととても気持ちがいいからだし、あまり疲れないからだ。だから常にそういう風に一本の糸状態でありたいと願っているけれど、その状態になるためには色々と条件があるらしいので、仕事中などはついネットサーフィンにコンセントレーションしていたりする。そして私はそのことさえも誇るべきなのかもしれない。少なくとも生きている。おめでとう。バタピーを食べ過ぎている。バタピーを食べ過ぎて吐きそうだ。だんだん何も考えられなくなってきた。書きすぎて何も考えられなくなってきた。私はこれを待っていた。
机の上にレシートが二枚、散らばっている。私はレシートが好きではない。すこしお邪魔だからだ。それからあんまりかっこよくないからだ。レシートの代わりに、みんなレシート帳みたいなものを持てばいいと思う。御朱印帳みたいなものだ。あるいは預金通帳みたいなものだ。モレスキンのレシート帳とかがあれば、きっと好きな人は買うと思う。そのレシート帳に買ったものを書いてもらうのだ。くっそめんどうだ。でもうれしい。私はそういうのが嬉しい。でもくっそ面倒だから、預金通帳みたいにレシートを記載してくれる機械にレシート帳を入れると自動で記載してくれるのだ。そうすればレシートが不必要な人は何もしないで帰れるし、必要な人はかっこいい自分だけの手帳にレシートを書いてもらえてwinwinwinwinwinだ。家計簿もそういうものかもしれない。家計簿が印刷されるマシーンみたいなものがあれば面白いかもしれない。クレカと同期していて、クレカにも詳細な商品名が記載されればそれは可能かもしれない。でも私はそれを記載するのがくっそめんどうだからやらないだろう。やらなくてもいいのだ。私はこういうことを考えるのが好きなのだ。考えるのがすでにひとつの遊戯なのだ。死亡遊戯なのだ。すべては死亡遊戯なのだ。パンは猛毒だ。バタピーも猛毒だ。あまり食べ過ぎない方がいい。さっきからずっと吐きそうだ。胃の辺りが紫色の雲渦巻いて。生きるって猛毒だ。致死率は100%だ。死ぬ気でやればなんでもできるのだ。どうせ死ぬのだ。考えても意味のないことは考えない方がいいのかもしれない。しかし考えることが楽しく、書くことが楽しいなら書き続けてもいいし、考え続けてもいいのかもしれない。過去はもう存在しないし、未来はまだ存在しないから、今やりたいことをやっている。それが考えることと書くことだった。しかし書くということに必要以上の期待をしたくないし、無駄な責を追わせたくないし、拝みたくないし、それが人生をかけて追求すべき究極の事象であるようにも捉えたくはない。でもあるいはそのように思ってみてもいいのかもしれない。答えはない。答えはないけれど自分なりの、しかも現在の自分の意見なら書ける。それを書いてもいいのか。結局、現在の私が現在、考え、書いているわけだから、現時点の意見しか書けないの、当然だった。だから気兼ねなく、遠慮なく、現在の自分の意見を自信を持って書けばいいのだ。あとで後悔するからとか、書いたら変に思われそうだからとか、過去&未来を恐れていては何一つ書けないし、それでは何一つ考えられないし、そのような不必要な遠慮とかをした文章なんて書きたくないし読みたくもない。現在の自分の意見を書けばいい。はっきり書いておこう。過去にも未来にも遠慮なんかせずに、今思っていることを書いておこう。書きすぎて吐きそうだ。
吐きそうだ、しか書いてないような気がした。それは私の望むところではない。Iさんのことを書いておかねばなるまい。それを私は忘れる。私はIさんのことを忘れる。絶対の自信がある。私はIさんのことをなんとも思っていないし、絶対に忘れることが無いことは書く必要がまったくないなぜなら忘れないから。しかし絶対に忘れることはむしろ書いておく必要がある。忘れるから。私はIさんのことを書いておこう。Iさんはある日突然会社にやってきた。白いシャツを着て、ショートカットの髪型をして、むっつりした顔をして、なんだか不機嫌そうだった。Iさんは私たちの仲間になる予定だった。
Iさんは、仲間になった。
Iさんはとても物覚えが悪かった。Aのことを教えるとAのことを忘れた。
Bのことを教えるとBのことを忘れた。Aのことを思い出すとBのことを忘れた。
CのことはBを覚えてからにしようと思っていたけれど、AもBも覚えていなかった。
「私は楽しく仕事がやりたいんです!」Iさんは言った。Iさんは全然楽しそうじゃなかった。
Iさんは目が一瞬で目が悪くなった。パソコンの文字が見えなくなった。
「全然見えません」とIさんは言った。「目がちょっと病気になっちゃいましたよ」
Iさんは本当に眼が病気になっていた。手術が必要な病気だった。眼球に尖った棒を刺さなければならないと言う。
「でも保険効かないんですよ。おかしいでしょう」と言ってIさんは笑った。
IさんはOさんのことを嫌っていた。OさんもIさんのことを嫌っているようだった。
「私はOさんのこと嫌いです。だれがあんなやつに教えてもらいたいって思います? そとくろさんならいいですけど」とIさんは笑った。
Iさんは私のことを与しやすしと思ったようだった。
私はIさんの不器用さが可哀そうだった。私はすぐ人を哀れむ癖があるのだった。私は全人類を愚かで、哀れな生物だと思う習慣があるのだった。そしておそらくそれは印象ではなく事実だった。
人類は、私も含めて。
Iさんは「面白い話があるんですよ」と言って、くしししと笑った。
「この間、お母さんが死んだんですけどね」と言った。ぜんぜん笑えなかった。
「地元に帰って葬儀じゃないですか、何か新しい店でも出来たかなって、葬儀場の人に聞いてみたんですよ。この辺りにおいしい店とかありますかって」とIさんは言った。
「そしたらその人が“おいしい焼き肉屋ありますよ”って、教えてくれたんですよ! くししし」とIさんは笑った。
「葬儀の日に焼き肉ですよ!? 食べたくないでしょ!」と言ってIさんは笑った。私は考えこんでしまった。なんて言ったらいいかわからなかった。何もわからなくなった。
でもぎりぎりのところで気がついた。
話が笑えるかどうかなんて関係がないのだった。
Iさんは笑ってほしいだけなのだ。私に。
私はぼはっ、ぼはっ、ぼはっ、ぼはっ、ぼはっ、ぼはっ、ぼはっ、ぼはっ、ぼはっ、と笑った。
Iさんは私に話しかける。
5分に一度は話しかけてくる。無論、仕事中のことだ。
並びの席になると、もう止まらない。止まらないほどしきりに話しかけてくる。
それほど話しかけてくるにも関わらず、私はIさんの話をほぼまったく覚えていない。
人が繋がりを求めるのは、不安が強い時だ、という知識を私は持っていて、もしかしたらIさんは何か不安なことがあるのかもしれない、とひそかに考えている。
たとえばOさんに対して、Iさんは対抗意識があるのかもしれない。私は愛されキャラなので、Oさんとも仲が良い。私はOさんとおいしいカレーを食べに行ったことがある。Iさんとは2度お酒を飲んだことがある。Iさんと私が話している時は、Oさんは決して話しかけてこない。何かあるのかもしれない。あるいは私の考えすぎかもしれない。
なんでもいいけど、何かあるなら巻き込まないでほしいと思っている。
Iさんは私にピーナッツをくれる。
「豆は食べていいんだよ。体にいい油だから、いいのいいの」と言って豆をくれる。
私は乾いた肉や、ミックスナッツや、漬物が好きだから、ピーナッツをいただく。つまんで食べる。無論、仕事中のことだ。
Iさんは時々、方言で話しかけてくる。私とIさんの故郷は近い。方言も少し似ているので、その話をする。お互いの言葉の違いや、共通点について話す。
Iさんは会社を辞めたTさんのことが大好きだ。とてもとても好きだ。Iさんは私にTさんのことを、一日一回は話してくる。といっても思い出話やエピソードトークではなく、Tさんの特徴を真似したり、口癖をもじったり、思考をトレースして表現したり、そういう好きなのだ。
私はTさんとはとても仲がいいと思われている。Tさんの家には何度も遊びに行ったし、何度も一緒に遊んだことがある。でも私は基本的にTさんが嫌いだ。私はTさんとはまったく趣味も嗜好も合わない。出会った頃からTさんをうっすらと軽蔑している。それでも私はTさんと一緒にいられる。それが私の長所であり、また短所であり、また狂気的な部分であり、病的な部分であり、憐れみと愚かさの対象だった。
IさんはTさんの真似をして、私を笑わせようとする。Iさんはそうしている時、とても幸せそうだ。IさんはTさんを少しずつインストールしている。Iさんは少しずつ、一日2ミリずつTさんになっていく。狂人の真似とて大路を走らばすなわち狂人なり。Tさんの真似とて変顔をすればすなわちTさんなりだ。何かの真似をするとき、その対象の本質は真似をしている人を変化させる。まなぶはまねぶということもある。私は少しずつIさんのことを嫌いになっているのだろう。
Iさんは相変わらず仕事を忘れる。OJTが終わっても、Iさんは私に仕事を聞きに来る。しかしとてもとても不思議なことに、Iさんはまったくミスをしない。小さなミスはあるにせよ、致命的なミスは全然しない。これは予想だにしなかった事実だ。私はてっきり、Iさんはどこかでひどく間違いを冒して、とても落ち込んでしまう日が来るのだろうと思っていた。しかし、そんな日は来なかった。Iさんは奇妙に、とても奇妙に仕事の難所を切り抜け続けている。私にはわからない。
どうしたらそんなことができるのだろう。
もしかしたらIさんは、本当は仕事を覚えているのではないだろうか。
わすれっぽいのではなく、ただ「習慣として」人に質問をするのでは?
そうなのかもしれない。そうじゃないかもしれない。わたしには確かなことはわからない。しかし、しかしそれでもひとつはっきりと言えることは、こうやってIさんもタフに生き抜いてきたということなのだ。
生きているんだ。生きているんだね、Iさん。
私はIさんが生きているということに気がついて感動した。私は人が生きているということに気がつくのがくっそ好きだ。大抵の人間はくっそNPCだからだ。彼らはくっそ一様に決まった動きしかしない。決まった言葉しかくっそ呟かない。出してもいい範囲しかくっそ露出しない。くっそくだらない、愚かで哀れな人間達……。
Iさんは私に話しかける。5分に一度のペースで。私は、時々忙しい。私はIさんの3倍忙しい。Iさんは定常業務以外の仕事を放棄、というより免除されている雰囲気があり、それを存分に生かしてほとんど仕事をしない。私は業務変更の見直しや、差し迫った定常外業務の書類作成、備品の整理、ネットサーフィンなどで忙しい。だから時々、ほんの時々、Iさんの話を聞き流してしまうことがある。
「ねえねえそとくろさん」
「ふーん」
「すごくおもしろいことがあったよそとくろさん」
「ふーん」
すると、Iさんは、何も言わずに静かになる。
私はそのとき、ものすごく悪いことをした気持ちになって、罪悪感を感じる。
パソコンのエンターキーをターンッと叩いて、
「なになに、聞かせてみよ」と私は言う。
「あのさあ!」とIさんはうれしそうに言う。
私だって、生きている。
今週のお題「習慣にしたいこと・していること」