もう一度カオス

 こうなってしまうと、その日はまず自己紹介から始まる。
  仕方のないことだと思う。
  はじめまして。私はうごく水たまりです。よろしくお願いいたします。
 
 私は混乱している。また興奮してもいる。こんがらがっている。
 縫物をしていると時々、何かの偶然で糸がよれて絡まり、意図せず固い結び目になってしまうことがある。
 ほどけない。
 縫物だけでなく、生きているとそういうことは際限なく発生する。
 
 知らない道を歩いていた。
 テニス・コートが左に見えている。そのテニス・コートは高い鉄柵で囲まれていた。鉄柵には鉄条網が絡みついていた。練習している人たちは悪人でもなさそうだし、ただ体を動かすのが好きな爽やかな人たちに見えた。しかし彼らは触れただけで怪我をしそうな鉄条網に囲まれている。そのことを知っているのだろうか。鉄条網に囲まれていることについて、どう思うだろうか。安心するのだろうか。それとも物騒だなと思うのだろうか。あるいは世の中というのは大体そういうものだ、と分かっているのだろうか。気にしたこともないし、認識さえしていないのだろうか。たぶんそうなのだろう。テニスをしている最中に「私はうごく水たまりだ」と発見したりはしないのだろう。アブリガドーのことも考えないのだろう。あるいは不況や貧困や災害についても、そこでは考えないのだろう。そのためのテニスなのかもしれない。
 テニスがしたい。心から。
 
 知らない道を歩いていた。
 小さい女の子と母親と思しき女性が私の前を歩いていた。
 女の子の方が歩道と車道を区切るための、低い鉄柵にまたがり、両手を横にびーんと伸ばした。
 あっ、と思った。
 なんか女の子がふざけてる! と思った。
 母親らしき女性が女の子の方に、すっと顔を向けようとした瞬間、私はその光景から目を逸らした。
 母親らしき女性は、笑っただろうか。あるいは、公道でそんな真似をするなとたしなめただろうか。わからない。笑っていればいいなと思う。
 何にせよ、一瞬で彼女たちはプライベート化した。一秒でごく親密なフィールドを展開した。
 見てはいけないと思った。
 そういう風に思うのが正しいのか、間違っているのか、私には分からない。
 ただあの女の子の意思を尊重したいと思っている。
 笑っていればいいと思う。
 
「ぼく、辞めます」と、Iさんがひそひそ声で言った。
「すみません、言うタイミングがなくて」彼は眉をひそめて言った。
 ショックだった。嫌だなと思った。誰もいなくならないでほしいと思った。もう人とさよならするのはつらいと思った。どうしてお前たちはいつもそうなんだ? と思った。勝手に現れ、仲良くなったかと思うと勝手にいなくなる。何がお前たちをそうさせるんだ? と思った。
 何一つ言葉にならなかった。
「そうなんですか、じゃあ、飲み行きますか」と私は言った。
 Iさんは笑った。そして仕事中にこっそり日程を調整した。
 悲しいなと思う。嫌だなと思う。めまいがしてくる。でも何一つ言葉には出来ない。
 Iさんは半年前に会社に来たばかりだった。
「これ、外黒さんにしか言ってないんで」と言ってIさんはずるそうに笑った。
 私は傷ついたし、すこしうれしかったし、Iさんが不憫だとも思った。
 私は新しい人が入ってくるとなるべく彼・彼女たちが嫌な思いをしないように苦心する傾向があり、そのため彼・彼女たちが私を慕いやすい傾向にあることは気がついていたし、それをちょっとした誇りだとも思っているし同時に気持ち悪い事だとも思っていた。
 裏切られた気持ちにもなった。
 どうしてお前たちはいつもそうなんだ? と思った。勝手に現れ、仲良くなったかと思うと勝手にいなくなる。何がお前たちをそうさせるんだ? と思った。
 私なんかをあてにしなくてはならなかったお前たちが、私は不憫で仕方ない。
 そしてすべてなかったことになる。
 何度繰り返せばいい。
 くそ何度でもだ。
 
 ハイパーハードボイルドグルメリポート全話と究極の名著と猫を棄てる話を見たり読んだりした。
 知ることは重要だけれど、まずその前に知るとは何かを知らなければならないと思った。
 知ることは疲れる。知ることは知ることの核となる。知ることで世界は広がるけれど知ることで世界は狭くもなる。
 私は満腹であり無知だ。何にも知らないのにシステムが生かしてくれている。甘やかされているだけで、これは私の力による満腹ではなく過去の日本人の努力のおかげだった。私の周りにも認識できない鉄条網が張り巡らされているのだろう。その存在を知ることから始めなければ、思うこと、思考することさえ出来ない。
 私は動物が大好きだ。撫でるのも好きだし、食べるのも好きだ。だからペットショップが嫌いだ。嫌いなのに私は近所のスーパーの地下にあるペットショップに行ってしまう。
 小さなきらきら光る魚や、首を水面ににょっきり出した亀の呼吸するたびに動く喉や、狭い檻の中で騒ぎ立てるインコたちを見て、かわいいなと思いながら人間って気持ち悪いなとも思っている。
 灰色の毛玉のような変な目つきの子猫が私の方に歩いて震えながら見上げてきた。
 こいつは仲間というよりも実は親戚みたいなもので、私たちはもともと同じような単細胞生物から進化して枝分かれして、すこし形の違ううごく水たまり同士になったわけだが、そこは幸せですか? 私は今、ばかみたいに小さい人間関係とか自分の将来とか健康とかそういう悩み、悩み未満のどうでもいいことをぐずぐず考えてちょっと落ち込んだりするけど概ね健康だし運のいいことに特に不自由なく生活できているから、幸せと言えなくもないよ、ということをうなずきながら目で語り掛けていると、そこへ店員が現れて立ち止まり、私を2秒ほど見つめたのがわかった。
 猫の名前は「大特価!! ¥128,000」だった。一番大きく書いてある言葉がそれだったんだから、そうなんだろう。私はその言葉の上にもっと大きな文字で、
「生きています」と書きたい。

 歳をとっても、色々なことがわからないなと思う。
 すべてを知ることはできない。
 すべての人間を笑わせることもできないし、すべての動物が助かる方法もない。
 それでも私が何かを知りたいとか、考えたいとか思うなら、それをやってもいい。
 くそ何度でも打ちのめされればいい。
 自分の不器用さや、未熟さや、無知さに。
 たぶんそうやってうごく水たまりたちは何かをここまで運んできたんだ。